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#003 稲村御所館跡の調査概要 管野和博

管野和博氏……須賀川市教育委員会文化・スポーツ課文化振興係の発掘調査員で須賀川市の埋蔵文化財に関わる業務を主に担当している。稲村御所館跡の調査は平成26年度で二年目となる。

【稲村御所館跡の位置と歴史的環境】
 稲村御所館跡は、福島県須賀川市稲字徳(とく)玄(げん)・御所館(ごしょだて)・赤(あか)城下(ぎした)に所在します。室町時代の応永六(1399)年に関東公方足利満兼(みつかね)の命を受けた足利満貞(みつさだ)(満兼の弟)が下向して奥州府を開設した際の本拠で、満貞は「稲村殿」・「稲村公方」などと呼称されていました。

 当時は室町幕府(伊達氏・蘆名氏など)と鎌倉府(白川氏・二階堂氏など)が対立しており、のちに篠川(郡山市笹川)に下向した足利満(みつ)直(なお(ただ))とともに、鎌倉府による奥州支配の最前線として位置づけられていました。

 当初は満貞・満直両者とも幕府に抗していましたが、のちに満直は幕府方に転じ、満貞は永享の乱(1439年)で満直らに攻められ自害しました。文献上では満貞が稲村に下向した応永6(1399)年から自害する永享年間までのおよそ40年間にわたって御所として使用されていたとされています。

稲村御所館跡全景

稲村御所館跡全景

(平成25年11月撮影)

中央が「御所館」、
左側が「徳玄の館」、
右後方が稲村城跡。

 現存する遺構は、独立丘陵上に土塁や空堀などが認められ、150m四方の歪んだ方形プランで北側に入り口(虎口)があります。また、北側には幅20mほどの堀(空堀)があり、現在でも良好な状態で残存しています。

 これを取り囲む堀は現在ほ場整備等で埋められてしまった箇所が多いのですが、本来は西側を除く「コ」の字形となっていたと考えられます。この堀で囲まれた郭を「御所館」と呼んでいます。

 また、御所館の南側には、一町四方(約100m)の方形を呈する郭がありました。地元では「徳玄」という医者が住んでいた館といわれています。

 この郭は昭和60年代のほ場整備時に削平されてしまいましたが、それまでは堀や土塁が明瞭に残存していました。この郭を「徳玄の館」と呼んでいます。

 このほか、御所館の北側を「ふるやしき」、「徳玄の館」周辺を「あらやしき」、西側の丘陵一帯(平成25年度に徳玄遺跡として調査した地点も含む)を「しじゅうだん」と地元では呼んでいます。

 この周囲には板碑などの石造物も多く、中世の風景を色濃くのこす地域です。

国道118号線発掘調査区(徳玄遺跡・稲村御所館跡)
国道118号線発掘調査区(徳玄遺跡・稲村御所館跡)

【発掘調査の概要】
 今回の発掘調査は、一般国道118号線松塚バイパス改良工事にともなうもので、「徳玄の館」の北側を東西に横断する道路建設のための発掘調査を平成25年度と本年度にかけて実施しました。面積は3,000㎡です。

 調査の結果、「御所館」・「徳玄の館」の堀跡や、掘立柱建物跡、井戸跡、橋状の遺構などを確認し、主に堀跡から多量のかわらけや陶磁器、木製品、鉄製品等が出土しました。

かわらけ

かわらけ


出土古瀬戸類

出土古瀬戸類

 「御所館」と「徳玄の館」の堀跡は、これまで発掘調査などを実施していなかったため、同時期と考えられてきました。今回の調査で、「御所館」の堀を埋めたあとに「徳玄の館」の堀を掘っていたことが明らかとなりました。

 「御所館」の堀は、調査地点の中央をのぞくほぼ全域で確認しました。堀のない中央部は、「御所館」に上る出入り口になると考えています。

 今回は「御所館」の南堀の一部を調査し、「御所館」のある北側が深く、南側に移行するにしたがって浅くなります。西側および東側は深さ1m程度と浅いのですが、中央部は1.5mほどとやや深くなります。この堀は最終的に埋められており、埋めた土の中に遺物が多く含まれています。また、この埋め土より下は、木製品などが多量に出土しています。

【「御所館」の堀跡(2次調査)】
 「徳玄の館」の堀は、西堀と東堀のそれぞれ一部を今回調査しました。少なくとも3回程度掘りなおされているようで、もっとも深い西堀で2m近くに達します。

 この堀で囲まれた郭の中に掘立柱建物跡が5棟、井戸跡4基などが認められます。また、今回調査した溝跡からは、橋状の遺構も確認されました。

徳玄の堀

徳玄の堀

(2次調査・SD3)

 遺物の多くは、「御所館」・「徳玄の館」の堀跡から出土したものです。土器類はかわらけが最も多く、古瀬戸や常滑焼などの国産陶器、青磁・白磁などの輸入陶磁器、火鉢・風炉(ふろ)などの瓦質土器なども含まれます。

 これらの大半は14世紀後半代から15世紀代のもので、16世紀代のものは非常に少ないのが特徴です。輸入陶磁器で言えば、染付(青花)は1点も出土していません。

稲村御所想定図

稲村御所想定図

(徳玄遺跡)

 また、「御所館」の堀は、15世紀前半代には人為的に埋めています。永享の乱で足利満貞が鎌倉で自害(1439年)した前後に「御所館」の堀を埋めて、その後に「徳玄の館」を造った可能性が高いと現状では考えています。

 今回の調査では、木製品が多量に出土しています。漆器は楪子(ちゃつ)と呼ばれる内面に段をもつ皿や、椀などがあり、漆で絵が描かれている椀も多く出土しています。

かわらけ

漆器(楪子)外面

漆器(楪子)外面

漆器(楪子)外面

漆器椀出土状況

漆器椀出土状況

 また、漆塗りの鞘を有する短刀なども認められます。このほか、折敷(おしき)・箸・板杓子・曲物・下駄・灰ならし・火付木・札状のものや形代とおもわれるものも出土しています。

 また、竹で編んだ箕とおもわれる製品も井戸跡から出土しています。

竹製箕出土状況

竹製箕出土状況

【おわりに】
 今回の発掘調査は館跡の南側一部を調査したのみですが、「御所館」と「徳玄の館」との関係や当時の生活を知る木製品など多くの知見を得ることができました。

 しかしながら、丘陵上にある「御所館」の構造やその北側にある「ふるやしき」と「あらやしき」との関係など、課題は多くあります。報告書作成にあたって、その点も追及できればと考えます。

 最後に、遺跡の発掘調査はその地域の先人の足跡を示す絶好の機会であると考えます。

 今回調査を行った稲地区(地元では稲ではなく、稲村といっています)は、南北朝期の北朝の拠点であった稲村城(稲村御所の北側に立地)や中世の板碑など多くの中世遺構が残存している箇所で、稲村御所館跡を含めた保存と活用が今後の課題といえるでしょう。

  【管野和博(かんのかずひろ)・須賀川市教育委員会文化・スポーツ課文化財発掘調査員】

        
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