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 トップページ > 遺跡調査部のご紹介(リレー・ブログ) > #117 東北の霊峰「霊山」 (2017.12.12)

 
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#117 東北の霊峰「霊山」 およよ

(準備編)
 3年前。福島へ出向した際に、遺跡調査部のF田さんに案内され、霊山の下の駐車場から、屏風のように連なる霊山の岩体を写真に収めた。その時、頂上だけでなく、山内のあちこちに礎石建物が残っていることや、ガラン、ヒラバ、南北朝、北畠、などという単語とともに「梅宮さん」という言葉が頻繁に出てきた思い出がある。「紅葉の季節がすごい」とも。結局この年は、霊山登山口近くのおいしいと評判のアイスクリーム屋さんには立ち寄っても、山にのぼることはなかった。

 この春。二度目の福島出向となった。遺跡調査部の佐藤さんから「霊山行きませんか、案内しますヨ」と声をかけられた。「秋、紅葉の頃に」是非お願いしたい旨を伝えておいた。佐藤さんは、「地元教育委員会の今野さんが霊山に詳しいので、都合がつけば、より奥の方にあるガラン(伽藍)の跡もみられかも」ともいう。古墳や山城はなかなか外部の研究者が見に行っても所在がわからないことが多い。未整備の古墳を探しに行っても小さな沢一つ分間違えていて、蜘蛛の巣を払いながらヤブコギ(藪漕ぎ)しても結局見つからないことが多い。近くにいることは間違いないのだが。こうした時は地元の専門家の案内が一番である。

 この夏。
遺跡調査部の青山さんと地元福島大学が調査中の須賀川市の団子山古墳とこれも東北学院大学調が査中の喜多方市灰塚山古墳を見に行った。神奈川の西川さんを郡山駅で拾い、調査中の菊地先生の団子山古墳を襲撃し、返す刀で会津に向かい、辻先生の灰塚山古墳の石棺内人骨と鉄器を拝んできた。余勢をかい、会津坂下町資料館の吉田さんを尋ね、盗人沢遺跡をはじめ地元の古墳や調査中の遺跡を案内してもらった。やっぱり地元の専門家、それも掘った(調査した)方の案内は最高だ。概観から微細なところまで、訊けば予想以上の情報が返ってくる。報告書には書けなかったひらめき等も。

 この秋。本題の霊山ツアーであるが、佐藤さん作成案内チラシを職場内の調査・整理・事務全員のスタッフに回覧した。10月28日(土)紅葉の霊山に老若男女が大集合というもくろみであった。夜は福島の街で雄たけびだー、と遠大な妄想もイメージしていたのだが・・・。

以下二人の会話
(O)「佐藤ち~ん 誰来る~?」
(S)「・・・、さっ、最悪、及川さんだけかも」
(O)「ナニーー?」
(S)「・・・松本さんもほぼ(たぶん)大丈夫だと思います、地元伊達市の今野さんもOKです」
(O)「もっとみんなに声かけてヨ!」
・・・職場の多くは地元福島出身、小学校(幼稚園?)の頃から「霊山」は遠足当然、地元以外の出身者も、既に福島市内に住んでウン拾年、行ったことがないわけがない・・・
・・・でも、紅葉の霊山、その奥の山中大伽藍跡、礎石に平場だぞ!地元専門家の案内付きだ!!と思うのであったが・・・

さて当日(10月28日 土曜日)
 10時、霊山紅彩館上の駐車場集合である。
 筆者は前日下調べにパソコンのネット上で「霊山」を検索していたのであるが、あちこちのサイトを覗いて、最後は大友宗麟にたどり着く。その後アルコールの力に負けてしまい、グダグダ、どうなったかよく覚えていない。不確かな記憶で、福島市野田町のレオパレス在住の当方のカンでは、「ここから霊山まで30分」と思い込んでいた。

 翌朝、余裕をこいていて、さあ出発と9時15分過ぎに車に乗り込む。念のためナビを確かめると「霊山紅葉彩館まで40分ちょっと」、「しまった、昼飯をどこかで買わないと!」 佐藤作成チラシでは「昼食各自とある」急にバタバタ。車中、ぎりぎり間に合いそうだと思いながら、115号線の工事個所相変わらずいくつもあり少しイライラ。
 そして霊山の入り口に到達、ほっとする。上るとS字のカーブの連続、ハンドル切り分け途中まで登ると、「こっちこっち」霊山の警備員さんたちの誘導棒、左に止めろという。
「えぇっ、こんな下まで車いっぱい?」
 3年前の記憶では「紅彩館」はもっと上のはず、しかも集合は紅彩館のさらに「上の駐車場!」
時間は約束の10時前、でも・・。ここから上まで・・と思いつつ、荷物もってくねくね坂を上る。舗装道路なのにやけに傾斜がきつい。はやくも両腿が警告シグナルを発する。
 10時ちょっと過ぎに「紅彩館」前に着くと「松本さん」が立っている。少し遅刻しあせりかけた身には「仏」のように見える。挨拶すると「トイレこっち」と教えてくれた。「そだよな、そうだよ!これから聖域に入るんだよな」となぜか思いながら。用を足す。これで一安心、平常心復活。
 上の駐車場まで登ると、少しスリムになった巨体が視線に飛び込んでくる。佐藤ちんである。上から下まで「山っぽい格好している」。青のヤッケ着て登山道脇に遠慮がちに立っている。その横に見知った顔が、「渡邊先生」である。着いたばかりで荷物整理したりオレンジの着衣の確認など落ち着かない。その横にスレンダーな青いウインドブレーカーを来ているのが誰か?そう、今回お世話になる地元伊達市の今野さんである。ぺこぺこ挨拶しながら形通り名刺を交換、今野さんの霊山論文もいただく。
イザ5名、霊山登山口へ。入り口で、案内図と缶バッチをゲット。

登山道入り口で配っていた缶バッチ
「残り少ないですよー」と言われ、
それではと頂いた。
ちゃんと胸につけて登りました。

 登山編
 一帯は霊山県立自然公園となっている。坂道から階段にかかり傾斜がきつくなる。山を下りてくる人たちとすれちがう。降りてくる人たちは杖を持つ人が多いので少し不安になる。でも、小学生ともすれ違ったので、小学生が登って降りてくるのだからとも思う。
 早めに、参加者に白状しておいた。山に登るの今回で2回目、1回目は10年ぐらい前に群馬県の岩櫃山に登ったことがある。山といっても、本命は山の途中、岩壁にある弥生時代の岩陰遺跡をどうしても見たかったためである。岩櫃の城が目的ではない。地元群馬の方々に案内していただき、弥生の遺跡を堪能したあと、「せっかくここまで来たのだから上まで」と勧められてはじめて山頂へ登ったのである。確か700mの後半ぐらいだったか(正確には802mだそうです)と、同行者に話す。

同行の皆さん。
松本さんも山の奥の大伽藍は、
初めてとのこと。
佐藤ちんは夏に
霊山を踏査しており、余裕。

 今野さんは「霊山はもう少し高いですよ。今までの最高になりますよ」とのこと。
 生涯最高の位置に立つのかとくすぐられたような思いの一方、57年間生きてきて山登り2回、合計たったの1600mかとも思う。まあ、八王子市在住ながら、未だに高尾山にも登ったことのない非国民(非市民)だからしょうがない。

途中、国司沢でのショット。
まだまだ、笑顔、余裕の表情。


 さて、再び霊山の方である。要所で簡単な説明があるものの、目的は国司館跡と霊山寺大伽藍跡。
 観光ルートはパスして、目的地にまっしぐら。それにしても、今野さん登るの早い。どんどんその差が広がる。
 ようやく国司池に到着、周囲は平場が多い。そして、坂上の左手に国司館跡の広い平坦面が広がる。礎石もかなり大きい。ここで何故か皆同一行動、礎石を見つけると、礎石間の歩測を始める。考古学者の習性か。

国司館跡到着


 ここでも「梅宮さん」の話題で持ちきり。そう、「梅宮さん」は福島県の考古学の重鎮、梅宮茂先生。惜しくも2000年に亡くなられているが、霊山と言えば梅宮先生なのである。山頂伽藍群、玉野川上流伽藍群、古霊山伽藍群にわかれることを『霊山町史』で指摘している。
 いまだ、発掘調査のメスは入っていないが、今野さんに言わせると、仮に霊山の遺跡整備事業だけでも何十年、今野さんが定年になってもまだ終わらない。歴史文書、動植物から地形地質など総合すれば、へたをすると100年計画が必要なほどの大・大遺跡、「霊峰霊山」。
 しかも、その内容が十分明らかとはなっていないという。おまけに、伊達市と相馬市の二つの自治体にまたがる。これは福島県が主導すべき大仕事である。  
 山中では、現在の地形観察、礎石配置の略測と遺物の採集など表面的な探索が行われているが、その全体像の多くは文献にも詳しかった梅宮先生の脳の中にしかなかったという。最近霊山の2/3を占める相馬市分で、相馬市史編纂関連事業で平場ごとの地表観察と礎石の測量が行われた。われわれ遺跡調査部課長の吉田さんもメンバーに加わっていた。そういえば、吉田さんも霊山の話になると、「梅宮さんガ~~、とか、梅宮さんノ~~」と言っていたことを思い出した。

西物見岩
福島盆地側を望めるが、
少しもやっている。
この人物はどうみても観光客、
登山客じゃない。

 物見岩から眼下の景色を眺めるも、曇っていてあまりよくない。その分岩肌の紅葉が目立つ。赤もあるが黄色が多い。
 その後、坂を下り日枝神社へ向かう。途中左手に低い土塁を見ながら歩く。相馬藩の土塁かも?とのこと。 
 登山道の表面は、あちこち地面が掘り返されている。イノシシの皆さん頑張って鼻先でホリホリいるようだ。当方の担当している楢葉町の遺跡でも、子だくさんのイノシシ母さんがちょろちょろするやつらを従え、現場の脇を通るのが目撃されている(筆者はまだ遭遇していないが)。
 霊山の猪さんたち、この秋の食料は足りているのかと余計な心配もしたくなる。今年の木の実は大丈夫だろうか、台風も2連発だったし。
 今野さんによると特別天然記念物のカモシカさんも時には道を通せんぼしているらしい。あとはまむしさん。阿武隈山地にはいないはずの月の輪熊さんにも注意だそうだ。
日枝神社はびっくりするような高い土塁に囲まれている。社とは不釣り合いの規模である。

 以下勝手に妄想。

~/~/~/~
 この土塁はその囲む内側を守るのではなく、中に閉じ込めた人を出られなくするものだ。そう、神奈川県の岡本孝之さんの弥生環濠論の霊山版である。古代か中世かよくわからないが、捕らえた敵か、もしくは山内の裏切り者や対立者を閉じ込めたのでは・・・。
///
 
 耳を澄ますと何か聞こえてくるかも。五感に加え第六感(ヤマ感?)も冴えてくる。

 その後、霊山寺跡の大伽藍にむかう。途中独鈷清水の水場を通る。湧水もしっかりしている。

大きな平場 
南向き斜面の山側を大規模に
削平し、その土を前に押し出して
平坦面を作り出している。
礎石を大きいがよく見ると
イノシシさんのホリホリした跡も多い。
掘るのは発掘の時だけでいいのにね。


 寺屋敷遺跡に到着。相馬市史で平場31と呼んでいる南面する場所である。大きな建物が予想され、礎石も地面の窪みの中に残っている。ここでもつい、一歩、二歩、三歩!「おおぉ」礎石間歩測。
 時計を見るとちょうど12時、さすが今野さん、ピタッと行程を合わせてきた。皆喉を潤し、お握りを頬ばる。佐藤ちんの差し入れ「川俣(町)名物、油ぱん」をいただく。お礼に持参の早生ミカンを渡す。渡邊さんからはチョコ、物々交換のわらしべ長者ごっことなった。
 平場は尾根上から何段にもわたり造られ、基壇と礎石が認められる。気になったのは六角形の建物礎石と基壇。確か、「上野国交代実録帳」『平安遺文』に八角形の倉の記載があり、群馬県伊勢崎市の調査で地際に八角形の倉庫の礎石が見つかったはず。この多角形の倉の形、弥生時代からの伝統で、米以外の穀物のためのものではと筆者は密かに思っていた。また一つ多角形の倉が増えたと一人心地する。

 水場の紅葉清水を越えると、こちらは小さな平場が至る所に見える。この平場を後にさらに山林の中に分け入っていく。この先、登山者もほとんど入らない山中に東寺町遺跡の平場群が展開するという。案内人がいないと迷子になりそうである。青やオレンジのヤッケはこういう時に目立つ、黒のジーンズに黒の綿シャツ姿の当方は、暗い日差しの中、樹木と落ち葉に溶け込んでいくような気がした。

 森の中、尾根を斜めに降りると突然平場群が目に飛び込んでくる。今まで見てきた平場と少し印象が違うようだ。大伽藍という印象ではない。植林が進んでいるが平場は人の手が入っているようで、藪になっていないところもある。礎石はあまり目立たないが、少し生活の匂いがしそうな「場」である。

山道を終え、ようやく東寺屋敷の
平場が見えてきた。


 さらに、斜面を下り、平場を探しながら一度沢に出る。この沢は玉名川の源流の一つで、下って宇田川に合流し太平洋まで流れる。今度は沢筋に沿って再度斜面を登る。あちこち台風の影響が残り、山水があふれている。途中藪の中に大きな水たまりをみつける。もしかして鏡などを水中投棄した霊泉、神や仏の池かもしれないと勝手に想像する。ようやくもと来た道に戻ったらしいが???ここはどこ?
 今野さんの先導で、今度は霊山の最高峰東物見岩まで登る。途中尾根筋脇に平場らしき平坦面を発見!早速、佐藤、今野両氏が探索として藪の中に飛び込んでいく。戻ってくると、いくつか平場がありそうだという。これ全山至る所、歴代の大伽藍だ。北畠さんの南朝は破れ、兵火に焼かれた。そのまま700年の眠りについてしまったようだ。来年は北畠顕家さん生誕700年で、展示を予定しているという。ちなみに、今野さんによると、現在でも仙台方面から修験の方が修行に来ているらしい。眠るどころか、今も聖なる山として生きていることになる。
 「もう一息、登れば最高峰の東物見岩、あとは下るだけですよ」、という今野さんの声に励まされ、急坂を登り切り、最後の岩場、鎖を伝って、ようやく頂上へ。

東物見岩にて
霊山最高峰に立って、何やら人生相談が


 本来、太平洋が見えるはずであるが、霞んでいてよくわからない。標高825mなので、はずかしながら生涯最高峰に立つ。言い訳を繰り返すようだが、まだ山は2回目だから・・・。ここで一休み。
 「後は下りのみ」のとおり、急坂が多く、しかも帰り道の最短距離のようで、右や左の木の枝や幹を手繰らないと勢い余って転んでしまいそうな、くねくね道のえぐれ道の滑り道。下りになったら、皆口数が増えてきた。なぜか、少しスリムになった佐藤ち~ん中心の話題。紅葉に囲まれた山中、聖域の中で、ダイエットと薄毛の話で盛り上がるとは。下界の人(Y田、Y元、F田氏などなど)は話題になっているとは気が付きもしないだろーな、なんて思いながら、坂道をくだった。
(聖域のなかでウワサは言霊、下界にも届いたか?)
 ふもとの登山口に着いた。4時間半ほど山中にいたことになる。最後の長い坂が結構下半身にきた。大看板の山内図を見ながら、本日のルートを再確認しクールダウン。これから飲みに行こうという気力がわいてこない。
 大伽藍のおさらいをしていると、そこに登山口の案内をしている方がこちらに寄ってきて、今野さんに声をかける。知人のようで、その方曰く、「昔、梅宮先生と何度もこの山を登り降りし、いっしょに調査したんですよ」、と。梅宮さんは霊山の調査を先導し多くの知人友人を誘い、地元の若者を動員し、そして慕われたようだ。

 山上だけでなく下界も「梅宮さん」であった。
 今野さんに、お礼し、霊山踏査隊は解散した。

 翌日、体があちこち痛いのではと予想していたが、起きてみたら、どこも特に筋肉痛はない。2回目の登山(くどい!)にしては悪くない。あるいは登山とは呼べない、山歩き、ちょっと標高の高い遺跡踏査であったか。でも、少し腰が重たい。

(文章中一部本人の特定をさけるために仮名とした)



 おっといつの間にか霊山にもいかれてたのですね。ここはその昔、慈覚大師円仁が創らせたといいう大寺院があったとされる聖地、ここが発掘されていないというのは本当に残念なことですね。

 Y課長の言によれば、かつて3千6百坊を擁し「西の延暦寺・東の古霊山」と並び称されたいにしえの仏都…梅宮先生もいつか自らの手で発掘するという夢を抱いたまま亡くなられたとか。まことに無念な想いだったことでしょう。

 しかし、ドラマを見るような文章、お見事。生涯最高峰の踏破、おめでとうございます。だけど、その聖なる地での話題が「ダイエットと薄毛の悩み」とは!

 人間の煩悩とは、かくも奥深きものなのでありましょうか(笑)

 これだけ歩いたにもかかわらず筋肉痛にならなかったのも、もしかするとホトケのご加護だったのかもしれませんね。

  (管理人:葉羽)


        
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