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 トップページ > 調査研究コラム > #074 植松C遺跡から出土した2つの浅鉢 (2019.05.29)

 
 このコーナーでは、職員が行った調査研究の成果について掲載しています。

#074 植松C遺跡から出土した2つの浅鉢 神林 幸太朗 

1 植松C遺跡について
 植松C遺跡は、福島県南相馬市に所在する遺跡です。遺跡の脇を通る県道浪江鹿島線(県道120号線)の整備事業に伴い、平成28年度に当財団が発掘調査を行いました。その結果、縄文時代前期~中期(約5,000年前~約4,500年前)にかけての遺物包含層と、平安時代の集落跡が確認されました。
 私はこの遺跡の担当になるまで、東北地方の縄文時代の遺跡を調査した経験がありませんでした。体が吹き飛ばされるかと思うくらいの真冬の強風と、調査終盤になって大量に出土した縄文土器に頭を悩ませながらも、見たこともない文様や装飾を施した土器などが次から次へと出土し、非常にワクワクしながら毎日調査をしていました。
 今回はそのなかでも、調査中に少し気になった土器を紹介したと思います。

2 遺物包含層から出土した浅鉢
 今回紹介するのは、縄文時代の遺物包含層から出土した、縄文時代中期のはじめ頃の時期作られたとみられる2点の土器です(図1)。いずれも浅鉢と呼ばれる器種です。一見すると胎土や色調が似ており、ほぼ同じような特徴をもった土器ですが、細かく観察すると多少の差異が認められます。
 まず①の土器は口縁部が欠損しています。割れた部分がそろっており、意図的に打ち欠いた可能性も考えられます。また割れ口付近には貼付文がわずかに認められることから、本来は口縁部付近に文様が施されていたと思われます。
 ②の土器は完形で、文様は施されていません。器形は①の土器と同じと思われますが、屈曲部の寸法を測ってみると、①の土器に比べてひとまわり大きいようです。
 このように非常によく似た土器ですが、完形か一部欠損・文様の有無・大小の違い、といった差異が確認できます。これらの浅鉢ですが、その他の多くの土器に多種多様な文様が施されている事を考えると、特徴の少ない「地味な土器」といえるのかもしれません。

図1 植松C遺跡出土の浅鉢
(福島県2018)掲載図を一部改変して作成

3 2つの浅鉢が出土した状況
 私が気になったのは出土した時の状態です。(写真1・2)

写真1 出土時の様子①
(福島県2018)より転載

写真右手側と上側の土器は
すでに取り上げています。

写真2 出土時の様子②
(福島県2018)より転載

出土状況を分かりやすく記録するために、
上の土器の一部を除去して撮影しました。

 出土した地点は、遺物包含層のなかでも特に土器が集中していた部分で、大型の土器が押し潰れていたり、大量の破片が幾重にも重なった状態で出しました。遺物包含層からは大量の遺物の他に、動物の骨や炭・焼土が多く混じった土が堆積しており、日常生活で不要となった物を継続的に廃棄する場所(簡単に言ってしまえばごみ捨て場)であったと思われます。
 そうした状況のなかで、これらの浅鉢は①が②の内側に重なった入れ子の状態で、伏せられたように出土しました(図2)。また一部にヒビが入っていたものの、しっかりと形を保った状況で出土したことも特徴的でした。

図2 浅鉢の出土状況
(福島県2018)掲載図を一部改変して作成

 周りの土器が破片で散らばるなど、いかにも「捨てられた」といった状態のなかで、これらの浅鉢は、丁寧に「伏せて置いた」ような状況を示していました。一緒に作業していた作業員さんが「この土器、ここに忘れていったんだね。」と言っていたのがとても印象に残っています。
 なぜごみ捨て場にわざわざ丁寧に土器を伏せ置いていく必要があったのでしょうか。私が縄文人なら、日ごろの鬱憤を晴らすがごとくフリスビーのように遠くに投げてしまいそうなものですが・・・。

4 浅鉢の出土状況
 植松C遺跡のように、浅鉢を「入れ子状態」かつ「伏せて置いた」事例は管見では、福島県において見出すことは出来ませんでした。しかし「伏せて置いた」とみられる事例はいくつか存在するようです。
いわき市に所在する愛谷遺跡では縄文時代中期を中心として、多くの縄文土器が出土しています。このうち浅鉢でいくつか特徴的な出土状況が確認できました。図示した4例中3例は埋設土器とされた遺構です。報告書には「黒色の遺物包含層を掘り込んでいるために、掘り込みの形態はよく知り得ず、地山面に到達してはじめて確認できることが多い。」(いわき市1985)と書かれていますが、図示したものは地山の斜面に沿って、そのまま伏せ置かれた可能性も考えられます。
 4号埋設土器は底部に穿孔が施され、小礫10個を囲うように周囲に配置しています。20号埋設土器は、拳大の礫4個の多量の炭化物を覆うように伏せ置かれているようです。23号埋設土器の内部からは骨片と石が出土したと記載されています。またもう一例の④の土器は、詳細な記載がないものの掲載された写真を見る限り、遺物包含層中からほぼ完形で逆位の状態で出土しており、伏せ置かれた可能性が高いと考えます。

図3  いわき市愛谷遺跡
浅鉢の出土状況
(いわき市 1985)掲載図
 を一部改変して作成 

 石川町の背戸B遺跡では、土坑の底面付近から伏せた状態で、有孔土器が出土しています(長島1989)。器形は壺形に見えますが扁平で器高が低く、浅鉢に類似した器種とも捉えられます。土坑の断面図を見ると一部は底面に接していますが、わずかに斜めに浮いており、当初は土器の下にある何かに被せるように置かれていたのではないでしょうか。この土器を報告した長島氏は関連資料の比較検討から、土坑の性格は墓坑で、土器は副葬品または遺体の一部に被せたものの可能性を指摘されています。
 少ないながらもこれらの事例からは、浅鉢という器種の土器がやや特別な扱われ方をされていた印象を受けます。関東・中部地方の浅鉢の出土状況を検討した中村耕作氏の論文によると、縄文時代前期の後半ごろに浅鉢を正位または逆位の状態で墓坑に埋納したり、竪穴住居の廃絶時に床面に供献する事例が多く認められており(中村2012)、葬送やさまざまな儀礼に用いる土器と認識されていたようです。また、葬送や儀礼に関する土器には、土器の大きさ・色彩・施文・出土状態が異なる2つの土器が共伴する事例(異質な二者の共伴)がしばしば認められる事を指摘されています。

図4 石川町背戸B遺跡 浅鉢(有孔土器)の出土状態
(長島1989)掲載図を一部改変して作成

5 まとめ
 以上のような状況を踏まえて、改めて植松C遺跡の浅鉢について考えてみたいと思います。まず出土する場所に関しては、植松C遺跡は墓でも竪穴住居でもない遺物包含層から出土しています。一方で出土した2つの土器は、文様の有無・大きさの違いが認められることや、一方の土器の口縁部を打ち欠くことで見かけ上の器形の違いを作り出しており、「異質な二者の共伴」という状況である可能性が考えられます。これらをまとめると、遺物包含層(ごみ捨て場)で行われた、何らかの儀礼の一環として浅鉢2つを入れ子状に伏せて置いたということになります。
 現代のわたしたちの感覚からすると、「ごみ捨て場で行う儀礼」とはなんとも不思議な行為と感じてしまいます。前述した墓や廃絶直前の竪穴住居とは一見何の繋がりも見いだせない気もします。墓に関連する人の死や、竪穴住居の廃絶といった出来事はいずれも「物ごとの終わり」を想起させる出来事です。ここからは想像ですが、植松C遺跡の縄文人は「ごみ捨て場」という場所を、縄文土器や石器など「道具が役割を終わらせた」場所や、食料となった動物などが「一生を終えた」場所と認識したのではないでしょうか。そして墓や竪穴住居の廃絶と同じように儀礼を行ない、最終的に大切にしていた土器を丁寧に置いていったのでは・・・と私は考えています。

6 おわりに
 一見すると何の変哲もない地味な土器から、なんとも大きな想像を膨らませてしまいました。それほど現場でこの土器を掘り出した時の感動や、あれこれ考えた時間が楽しかったということなのかもしれません。
縄文時代の専門ではないため、詳細な研究の現状も把握しておらず、ちょっとした誤りがあるかもしれませんが、 今後も現場でのちょっとした感動や気付きを大切にしたいと思います。なおこのコラム執筆している時に、植松C遺跡の資料が福島市の遺跡調査部から白河市のまほろんに移管・収蔵されました。今後のさらなる調査・研究の進展や、展示・普及活動に活用されることでしょう。調査を担当した者としては、お世話になった南相馬市や浜通りの皆さんに、いち早く公開・活用されることを願って終わりにしたいと思います。

引用・参考文献
いわき市教育委員会1985『愛谷遺跡』いわき市埋蔵文化財調査報告 第12冊
鈴木徳雄2008「浅鉢」『総覧縄文土器』アム・プロモーション
中村耕作2012「土器カテゴリ認識の形成・定着-縄文時代前期後半における浅鉢の展開と儀礼-」『古代文化』第64号第2号
長島雄一1989「石川町背戸B遺跡の有孔土器について」『福島考古』第30号
福島県教育委員会2018『県道浪江鹿島線関連遺跡発掘調査報告1 植松C遺跡』福島県文化財調査報告書第524集

        
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