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 トップページ > 調査研究コラム > #069 道跡研究の可能性 (2018.07.17)

 
 このコーナーでは、職員が行った調査研究の成果について掲載しています。

#069 道跡研究の可能性 佐藤 啓

1 はじめに
 みなさん、はじめまして。このたび遺跡調査部に異動し、5年ぶりに発掘調査を担当することになりました佐藤啓と申します。私は、もともと縄文時代を中心に考古学を学んできましたが、南会津町久川城跡の調査に携わってから城郭研究に目覚め、現在は「境目の城」の役割や、城と道(街道)との関係について研究を進めています。そのため、最近は『「縄文」時代じゃなく「城門」時代だ』などとからかわれているほどです。
 そんな私ですが、同僚の冷ややかな視線にもめげず(?)以前勤務していた福島県文化財センター白河館(まほろん)の『研究紀要』に執筆した論考(註1)をご紹介したいと思います。

2 白河市芳野遺跡と鍛冶屋敷館跡
 芳野遺跡は白河市白坂字芳野に所在する遺跡で、まほろんのすぐ南に位置しています。白河市立白河南中学校の建設に先立ち平成17・18年度に実施された発掘調査で、中世から近世初期に営まれた道跡と、これに沿って並ぶ建物跡群や井戸跡が多数発見されました。遺跡は道に面した町屋跡と考えられ、道跡は幹道(中世の「奥大道」、近世の「奥州街道」)、町屋は江戸時代に編纂された『白河風土記』に記載された「吉野宿」に比定されています(註2)。遺跡は、道跡の新旧から3期の変遷をたどり、第1・2期(1・3号道跡)が鎌倉時代から室町時代、第3期(2号道跡)は江戸時代初頭が下限と考えられています。

 芳野遺跡の東約400mには、鍛冶屋敷館跡が位置しています。上述した『白河風土記』に、遺跡内から鉄塊が発見されたとの記載があり、古くから屋敷跡と認識されていました(註3)。発掘調査は行われていませんが、空堀とこれにそった土塁による方形の区画が約70mにわたって確認されています。遺跡は、現在「館跡」として登録されていますが、その性格についてはいまだ定説のない「謎の遺跡」です(註4)。また、館跡の東西に土塁を伴う地割が約500m確認されており、かつて「関ヶ原合戦」時の「防塁」と呼称されていましたが、現在では否定されています(註5)。

3 第1・2期の道跡と鍛冶屋敷館跡(図1)
 芳野遺跡の道跡は、平行する溝跡とこれに挟まれた硬化面として発見されました。このうち1・3号溝跡は、道の軸線が変わらないことから、同じ場所で改修された道であることが判明しました。そして道跡の南北には、多数の建物跡や井戸跡・竪穴状遺構からなる屋敷地が密集していました。
 これらの遺構は、重複例が多いことから長期間使用されたと推定され、出土遺物から鎌倉時代から室町時代にわたり営まれたと考えられます。

 ここで注目されるのが、道跡と前述した地割との関係です。道跡は東西に延びる幅狭の丘陵頂部を走っていますが、これを東方に延長すれば館跡周辺で交差することになります。丘陵頂部に築かれている道が館跡周辺で曲がるとは想定しにくいことから、道が館跡に沿って走る可能性は低いと考えられました。

                 図1 第1・2期のようす

4 第3期の道跡と鍛冶屋敷館跡(図2)
 これに対し、第3期と考えられる2号道跡の軸線は、1・3号道跡の軸線より15°北にずれていました。そして、2号道跡を東に延長したラインが、隣接する石阿弥陀一里塚を通過し、館跡とそれに続く地割に平行することが想定されました。またこの地割は、館跡西方に延びたのち南北方向に屈曲していますが、北に延びた土塁が一里塚にとりつくのが現況でも確認できます。
 このように、2号道跡と石阿弥陀一里塚、館跡から続く地割が強い関係性をもって構築された、一連の遺構と考えられたのです。石阿弥陀一里塚の構築が慶長9(1604)年に江戸幕府によって命じられた五街道整備令を契機とすることから判断すれば、これらの遺構は江戸時代初期には成立していたことになります。その廃絶時期は、丹羽重長が小峰城と城下町を整備・改修し、奥州街道を現在の南湖の西に付け替えた寛政6~9(1629~1632)年と考えられていることから(註6)、この時奥州街道と鍛冶屋敷館跡との関係も終わりを迎えたとみられます。
 ところで、芳野遺跡の発掘調査では第3期の遺構数が減少し、道と町屋の関係も希薄になると想定されました。また、一里塚から東方の地形は傾斜がきつく、道の両側に建物を想定するのは困難と考えられます。このことから、芳野遺跡にあった建物跡が丘陵平坦面の鍛冶屋敷館跡とこれに続く地割内に移転した可能性も考慮すべきかもしれません。

                   図2 第3期のようす

5 おわりに
 以上、芳野遺跡から発見された道跡の検討から、発掘調査が実施されていない鍛冶屋敷館跡とそれに連続する地割の年代を想定してみました。その結果、芳野遺跡2号道跡と地割が江戸時代初期には存在していたことを指摘しました。道跡の研究が、別の遺跡や遺構を考える上でも参考となりえることがご理解いただけたかと思います。
とはいえ今回の考察では、館跡の具体的な性格や第3期の道の付替時期については、明確な答えを提示することができませんでした。これらの課題については、今後の調査・研究にゆだねたいと思います。

 このほか『福島県文化財センター白河館研究紀要2017』では、戊辰戦争時に建設された、全国的にも珍しい遺構の考察「馬入峠の要砦(ようさい)とその背景」も執筆しました(共著)。本年は「戊辰戦争150年」でありますので、あわせてご覧いただければ幸いです。以上の論考は、まほろんのホームページで閲覧・ダウンロードできます。

(註1)佐藤啓 2018 「遺跡から道を考える」『福島県文化財センター白河館研究紀要2017』
(註2)白河市教育委員会 2008 『芳野遺跡発掘調査報告書』
(註3)白河市 2001 「鍛冶屋敷館跡」『白河市史 四』
(註4)関口和也2017 「鍛冶屋敷館跡の再検討」『戦乱の空間』第16号
(註5)本間 宏 2011 「慶長五年「白河決戦」論の誤謬」『福島史学研究』第八十九号
(註6)白河市 2001 「石阿弥陀一里塚」『白河市史 四』


        
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