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 トップページ > 調査研究コラム > #067 浜通りの城館Ⅰ-丘陵分断型城郭(仮)の研究- (2018.4.24)

 
 このコーナーでは、職員が行った調査研究の成果について掲載しています。

#067 浜通りの城館Ⅰ-丘陵分断型城郭(仮)の研究- 佐藤 俊

1 はじめに
 室町時代から戦国時代には、国人領主や守護職・守護代が領土をめぐり相争うことにより、多くの城館が築かれました。中でも織田信長や豊臣秀吉が活躍する前の時代の城館は、石垣や瓦や漆喰で誂えられた天守閣など無い、土塁や堀で築かれたいわゆる『土の城』が主流だったのです。『土の城』のおもしろさとは、役割や地形により多種多様な構造を示すところにあります。
 福島県浜通り地方双葉郡は、標葉(しねは)氏や楢葉(ならは)氏といった国人領主の台頭や、岩城氏と相馬氏の領土をめぐる長年の抗争によって数多くの城館が築かれました。その数は浜通り地域で約340か所、双葉郡内では約60か所を数えます。また、磐城平藩の儒学者神林復所(かんばやしふくしょ)が文政年間(1818-1831)前後に編纂した「磐城四郡小舘記」には、岩城氏の支配が及んだ四郡内(楢葉郡、岩前郡、岩城郡、菊多郡)において150か所もの城館が紹介されています。
 平成29年度に福島県文化振興財団が発掘調査を行った毛萱館(けがやたて)跡も、双葉郡富岡町に位置する中世城館のひとつです。毛萱館跡は、海岸線に近い丘陵上に立地しています。遺跡の北西側は紅葉川で開析された急峻な崖となっており、いかにも天然の要害といった趣があります。毛萱館跡は、丘陵頂上の平坦部を堀と土塁によって分断して曲輪を構築するシンプルな構造が特徴の城郭と言えます(図1・2)。このような構造ですが、浜通り地方に位置する城郭の縄張図を眺めてみると意外と類例が多いことに気付きました。
 本コラムでは、上述の特徴を示す城郭を『丘陵分断型城郭』と仮称して、その特徴について迫ってみたいとおもいます。

図1 兵陵分断型城郭(仮)模式図

図1 丘陵分断型城郭(仮)模式図


図2 毛萱館跡概略図

図2 毛萱舘跡概略
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2 丘陵分断型城郭(仮)の分布と特徴
 浜通り地方における丘陵分断型城郭(仮)は管見によれば12遺跡を数えます。中でも8遺跡が楢葉・標葉の両郡周辺に集中して分布しています(図3)。
 文献資料から築城者が判明しているものは、浪江町権現堂城跡と富岡町日向館跡の2遺跡が挙げられます。
 権現堂城跡は、元禄十三年(1700)に藤橋隆重(ふじはしたかしげ)が編纂した「東奥標葉記」(とうおうしねはき)によれば、嘉吉元年(1441)に標葉郡の総領標葉左京大夫清隆が、太平山城から移った城(権現堂本条館)とされており、明応元年(1492)に相馬高胤・盛胤の軍勢により落城したとされています。
 日向館跡は、中津朝睡が寛文七年(1667)に記した「奥相茶話記」(おうそうさわき)によれば、永正年間(1504-21)に岩城親隆の四男富岡大和守隆時が築いた城とされ、天文三年(1534)には相馬顕胤の軍勢によって落城したものの、元亀元年(1570)に岩城氏により奪還されたとしています。日向館跡は、岩城氏による相馬氏との領国境を守備するための「境目の城」として機能していたと考えられます。
 また発掘調査からその年代や性格が判明した城館もあります。楢葉町小塙城跡は、常磐自動車道の建設に先立ち発掘調査が行われました。出土遺物には青白磁の梅瓶、青磁の盤、瓦質土器の風炉などの優品が多く含まれることや、瀬戸窯製品の器種の多様さから、楢葉氏の居館跡と推定しています。年代は出土遺物から14~16世紀に機能したと考えられています(本間ほか2002)。このように丘陵分断型城郭(仮)は標葉郡、楢葉郡の周辺に多く分布しており、その性格は文献資料や発掘調査から楢葉・標葉の国人領主の居館や、境目の城として機能していたと言えるでしょう。

図3 浜通り地域における兵陵分断型城郭(仮)の分布

図3 浜通り地域における丘陵分断型城郭(仮)の分布
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3 城郭の規模について
 丘陵分断型城郭(仮)の規模を比較するために、丘陵頂上部の平坦面の面積を計算してみました(表1)。
 これをみますと面積は3,600~65,000㎡と、規模に大きな差異があることに気付きます。規模は小型(約5,000㎡)、中型(約10,000~20,000㎡)、大型(40,000㎡以上)の3つに分けられるようです。
 小型には南相馬市下浦館跡や、富岡町小浜館跡が挙げられ、丘陵の先端部のみを堀と土塁で分断して城郭としています。普請途中に廃棄されたか、少人数で守備するような砦だったのでしょうか。
 中型には、浪江町権現堂城跡、大熊町佐山館跡、富岡町毛萱館跡、楢葉町井出城跡・小塙城跡が挙げられ、丘陵の先端部や、丘陵から派生した枝状の細長い尾根全体を堀と土塁で分断して城郭としています。中型のものには、権現堂城跡や小塙城跡など国人領主の居館が目立ちます。大型には、南相馬市中館跡、富岡町日向館跡・真壁城跡、いわき市八幡台遺跡、館跡遺跡が挙げられ、細長い丘陵を堀と土塁で分断して城郭としています。
 真壁城跡は、丘陵から派生した3つの短い尾根を、堀や土塁で分断し城郭としています。大型のものは相馬郡や岩城郡の城にみられるのが特徴的といえます。

表1 丘陵分断型城郭(仮)の丘陵頂上部の面積一覧

表1 丘陵分断型城郭(仮)の
丘陵頂上部の面積一覧
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4 城郭の選地について
 丘陵分断型城郭(仮)が浜通り地方にみられる理由のひとつとして、地形的な特徴にあると考えています。浜通り地方は双葉断層を境にして、西側に阿武隈高地、東側に浜通り低地帯という地形的特徴を示しており、西側は標高500~700m程の阿武隈高地の高嶺が広がる一方、東側の浜通り低地帯は、標高100ⅿ以下の樹枝状に複雑に入組んだ低丘陵が広がっています。浜通り地方の中世城館の大半は、この低丘陵地上に立地しています。樹枝状に細長い低丘陵地に築城する場合、大規模な曲輪や高低差のある曲輪の構築が制限され、丘陵を堀と土塁で分断し曲輪を構築する城郭が成立していったと考えられます。

5 小結
 丘陵分断型城郭(仮)は浜通り地方でも特に標葉郡、楢葉郡の周辺に多く分布しており、その性格は、文献資料や発掘調査から国人領主の居館や、境目の城と考えられます。
 そのほかにも性格の判明していない城館が多くあることから、多様な役割があったのかも知れません。丘陵分断型城郭(仮)の規模は3,600~65,000㎡と大きな差異があり、中型には標葉・楢葉郡の国人領主の居館などにみられ、大型になると相馬郡、岩城郡にみられます。
 城館規模の大小には動員兵力や用途が大きく関係すると考えられますが、詳しくは次回の課題としたいと思います。
 丘陵分断型城郭(仮)は、低丘陵上に位置するものがすべてであり、地形的制約のもと、守り易く、最小限のコストで築城するために採用されたのかも知れません。また、相馬氏の本拠小高城跡や岩城氏の本拠となった大館城跡・白土城跡では、丘陵分断型城郭(仮)を採用していないことから、地形的な制約のほかにも経済的な制約があったのかも知れません。領主ごとの城館の選地や構造について、詳細に分析する必要があり、今後の大きな課題だと考えています。
 双葉郡は、平成23年3月11日に発生した東日本大震災に起因する福島第一原子力発電所事故により、いまだに一部地域への立ち入りが制限されています。城郭研究は実際の地形を踏査することが必要不可欠であるため、双葉郡内の研究は他地域と比較して遅滞しているのが現状です。本研究が、双葉郡における中世城館研究の遅滞を解消する一助となれば幸甚に思います。

 本コラムを作成するにあたり山元出さん、及川良彦さんからアドバイスを頂きました。記して学恩に感謝申し上げます。

参考文献
福島県教育委員会 1988 『福島県の中世城館跡』福島県文化財調査報告書第197集
福島県教育委員会・公益財団法人福島県文化振興財団 2017 『平成29年度県道広野小高線整備事業遺 
跡発掘調査 毛萱館跡現地見学会資料』
松岡進 2015 『中世城郭の縄張と空間 土の城が語るもの』 吉川弘文館
諸根樟一 1987 『磐城誌料叢書 全冊』勿来文庫
本間宏ほか 2002 『小塙城跡(3次調査)』 福島県教育委員会、財団法人福島県文化振興事業団

        
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