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 トップページ > 調査研究コラム > #062 阿武隈川上流域の大型横穴式石室 (2017.09.08)

 
 このコーナーでは、職員が行った調査研究の成果について掲載しています。

#062 阿武隈川上流域の大型横穴式石室 草野 潤平

はじめに
 現在、福島県文化振興財団が発掘調査を行っている須賀川市高木遺跡の南方には、東北地方最大級の横穴式石室(よこあなしきせきしつ)を埋葬施設とする古墳が2つ存在する。

 1つは玉川村との市境に位置する景勝地・乙字ヶ滝にほど近い前田川大塚古墳、もう1つは明治年間に金銅装大刀・銅鋺・馬具など多様な副葬品が出土したことで知られる蝦夷穴古墳である。後述する横穴式石室の特徴や出土遺物の年代観から、前田川大塚古墳は7世紀初頭頃(西暦610年前後)、蝦夷穴古墳は7世紀前半(620~630年前後)に築造された有力者墳墓と考えられる。

 図1は両古墳の石室実測図である。石室実測図の中央に配置している図は、石室を真上から見下ろす視点で描かれた平面図をあらわす。平面図をはさむように左右に配置している図は、左右の壁を真横から見る視点で描かれた側壁立面図、平面図の上に配置している図は突き当りの壁を入り口方向から見る視点で描かれた奥壁立面図で、それぞれ中央の平面図側が床面となる向きで配置されている。2つの横穴式石室は、直線距離で約2.5kmと比較的近い位置に連続して造られたものだが、石室の特徴を見比べると意外なほど似ていないことに気づく。

本コラムでは、時期的・空間的に近接していながら異なるタイプの石室が構築された背景を探ってみたい。

図1 前田川大塚古墳と蝦夷穴古墳の石室実測図

前田川大塚古墳の石室(図1-1)
 石室前方の石積みは破壊を受けており、現状での石室全長は10m強を測る。墳丘における石室の位置関係を考えると、本来の石室全長も現状と大差なく11m前後と推定してよい。石積みの残存部前端から2mほど奥へ進んだ位置には、柱状の石材が側壁から突き出ていて、ここより奥が「玄室」(げんしつ:遺骸を埋葬する主室部分)、手前が「羨道」(せんどう:通路部分)とわかる。なお入り口から奥へ向かって右側は、前方の石積みが完全に失われているが、左側と同様の位置に突出する柱状の石材を立てていた可能性が高い。 また石室の幅は2mほどで、狭くはないが幅に比べて奥行きが際立つ形態といえる。石室全体に占める玄室の奥行きがアンバランスに長い(羨道が短い)点と相まって、“長大な玄室”という第一印象を抱かせる。

 また床面全体に大きな板石を敷き並べている点も特徴的で(写真1左)、この板石の上に側壁基底石が載る箇所も認められることから、側壁を積み上げる前に床石を敷いていると判断できる。床石の上に側壁が載る構造というと終末期古墳の横口式石槨(よこぐちしきせっかく)を思い浮かべるが、前田川大塚古墳では一部に認められるに過ぎず、横口式石槨とは異質のものとみて間違いない。前田川大塚古墳石室を造るうえで板石の敷設が重要な要素と強く意識されたため、側壁の積み上げに先立って敷き並べられたと解釈するのが妥当であろう。

 石室の壁には、凝灰岩を荒く打ち割っただけの「割石」(わりいし)が多用されているが、奥壁や玄室奥寄りの側壁下段を中心に比較的大きな石材を据える特徴がみられ、これらの大型石材では「切石」(きりいし)と表現される加工石材と同様の平滑な面仕上げが認められる(写真1右)。

 前田川大塚古墳のモデルとなった石室を探るにあたっては、“長大な玄室”や“床石の敷設”、“側壁下段の大型石材”がキーポイントになりそうである。

写真1 前田川大塚古墳石室の床石敷設状況と奥壁寄りの大型石材

蝦夷穴古墳の石室(図1-2)
 前田川大塚古墳と同様、石室前方の石積みは上半を中心に大きく崩れているが、辛うじて残存していた基底石の並びから石室全長11mとの推定値が示されている〔梅宮1964ほか〕。この数値が一般に知られているものと思われるが、なかには「全長8m以上」と説明される場合もある〔福島1986〕。これは前方3mほどの残存状況がとくに悪いため、この部分を差し引いた方が無難と考えてのことだろう。つまり前田川大塚古墳石室と同程度か、もしくはやや短い規模ということである。
 石室中ほどの左右の側壁からは、前田川大塚古墳と同じような柱状の石材が内側に突き出ており、ここで玄室と羨道が区画されている。なお蝦夷穴古墳の柱状石材は、突出する先端の面が奥に向かってハの字形に広がるように配置されている点が特徴的で、細かい点ではあるが意識的な造作として注目しておきたい(写真2左)。
この柱状石材を起点とする玄室の奥行きは約4.5mで、玄室と羨道の長さが同程度、あるいは石室全長を最大値で見積もれば羨道の方が長いことになる。玄室の長大さが目立つ前田川大塚古墳の石室形態とは異なる印象を受けるだろう。

 石室を構成するすべての石材は、ノミなどの刃付き工具でケズリ加工を施した凝灰岩切石であり、使用石材の点でも凝灰岩割石積みの前田川大塚古墳と異なる。先述のとおり、前田川大塚古墳でも一部の大型石材については切石加工を認めうるが、整ったブロック状の加工石材を基本とし、一部の石材隅角にL字形の切り欠きを加えながら壁を積み上げる「切組積」(きりくみづみ)手法が駆使された蝦夷穴古墳との違いは大きい(写真2右)。
 前田川大塚古墳の石材加工・積み上げ手法を技術的基盤として蝦夷穴古墳が直接成立したとは考えにくいのである。

写真2 蝦夷穴古墳石室の柱状石材と切石加工状況


石室のモデルはどこから来たのか
 ここまでの比較検討で、蝦夷穴古墳石室が前田川大塚古墳石室の流れを汲んで構築された訳ではなく、それぞれ別のモデルが存在することを示してきた。両者よりも古い横穴式石室で類似する特徴をもつ事例は福島県内に存在せず、遠隔地に構築された石室をモデルとしていると考えざるを得ない。

 前田川大塚古墳石室のモデルをめぐっては、いわき市勿来金冠塚古墳(7世紀初頭)・仙台市法領塚古墳(7世紀前半)と茨城県北東部における横穴式石室との共通性から指摘された地域間交流〔古川1996・横須賀2007ほか〕が参考になる。勿来金冠塚古墳・法領塚古墳は本コラムで取り上げた2古墳に勝るとも劣らない太平洋沿岸の有力者墳墓で、長台形を呈する玄室中央に間仕切り石を設置する(勿来金冠塚)、あるいは玄室の奥半分に板状の切石を敷き並べる(法領塚)という床面の特徴や、玄室奥寄りの側壁下段を中心に比較的大きな石材を据える点など、6世紀後半~7世紀初頭に位置づけられる茨城県北東部の横穴式石室に特徴的な要素が採り入れられている(図2-1~3)。従来の議論では、こうした特徴をもつ石室群(以下、便宜的に「茨城北東部系石室」と表現)について、太平洋沿岸で展開した交流関係を示すものとして説かれてきたが、内陸部の中通りに築かれた前田川大塚古墳石室の場合も、すでにキーポイントとして挙げた“長大な玄室”・“床石の敷設”・“側壁下段の大型石材”の諸点が共通する要素と見なせるので、同様に「茨城北東部系石室」がモデルであろうと判断しておきたい。

図2 モデルとなった石室とその関連事例

 蝦夷穴古墳石室については、この「茨城北東部系石室」とは別に、同じく茨城県北東部に位置する高萩市赤浜2号墳の切石切組積石室がきわめて共通性の高い事例として指摘できる(図2-4)。
赤浜2号墳石室には、蝦夷穴古墳石室の特徴として挙げた柱状石材のハの字形配置も認められ、蝦夷穴古墳の直接のモデルとなった事例と考えられる。

 ところで赤浜2号墳より先行して築造された赤浜4号墳(図2-5)では、長台形の玄室中央に間仕切り石を並べており、側壁石積み等の立面情報については詳細不明だが「茨城北東部系石室」に含められる可能性が高い。つまり蝦夷穴古墳石室のモデルとなった赤浜2号墳石室は、前田川大塚古墳石室のモデルとなった「茨城北東系石室」の流れを汲んで構築された次代の変化形態と整理できる。
 このように前田川大塚古墳と蝦夷穴古墳の石室のモデルは、どちらも茨城県北東部に求められる可能性が高い。さらに前田川大塚古墳以前に築造された付近の古墳をみてみると、6世紀中葉頃の大仏15号墳に採用された横穴式石室が茨城県東海村舟塚1号墳をモデルとし〔草野2015〕、これに後続する塚畑古墳からは茨城県域の影響を受けた人物埴輪が出土している〔藤沢2010〕。つまり須賀川市域では、6世紀中葉から7世紀前半に至る有力者墳墓に茨城県北東部との繋がりが連綿と認められるのである。伝来した特定の石室形態・構造が根付いて後続の古墳に受け継がれるのではなく、適時最新の石室モデルがもたらされたこと、そしてその地域間交流が茨城県北東部という単一遠隔地との間で継続性をもって展開していたことは、当該地域の特質と捉えられよう。

おわりに
 東北地方最大級の横穴式石室である前田川大塚古墳・蝦夷穴古墳が築造された時代は、畿内政権による地方支配制度である「国造制」が東日本でも施行されるなど、中央集権体制の確立を目指す動きに拍車がかかる頃に当たる。そのような激動の時代にあって、東国の一地域と深いかかわりをもつ「石背」地域(いわせ:現在の須賀川市域)の有力者とはどのような人物だったのだろうか。この時期の考古学的事象のあり方から、東北地方における国造制の存否自体を含めて慎重に議論すべきという意見もあり〔菊地2015〕、彼らをただちに石背国造と断定するのは控えたい。本コラムで示したような古墳どうしの関係性の追求を通して被葬者の性格に関する検討を積み重ねることが、解明の糸口になるのではないかと期待している。

参考文献
梅宮 茂 1964「蝦夷穴古墳」『福島県史』第6巻 資料編1 考古資料
菊地芳朗 2015「前方後円墳の終焉と終末期古墳」藤沢敦編『倭国の形成と東北』東北の古代史2 吉川弘文館
草野潤平 2015「横穴式石室からみた東北・関東の交流―阿武隈川流域を中心として―」菊地芳朗編『阿武隈川流域における古墳時代首長層の動向把握のための基礎的研究』平成25~27年度科学研究費補助金基盤研究(C)研究成果報告書 福島大学行政政策学類
福島雅儀 1986「阿武隈川上流域の切石積横穴式石室」『考古学雑誌』第72巻第2号
藤沢 敦 2010「東北」広瀬和雄・太田博之編『前方後円墳の終焉』雄山閣
古川一明 1996「北辺に分布する横穴墓について」『考古学と遺跡の保護』甘粕健先生退官記念論集刊行会
横須賀倫達 2007「勿来金冠塚古墳出土遺物の調査Ⅲ―装身具類・土器類・武器類(追加)と古墳の評価―」『福島県立博物館紀要』第21号 福島県立博物館

図版出典
図1-1:福島雅儀1992「陸奥南部における古墳時代の終末」『国立歴史民俗博物館研究報告』第44集
図1-2:梅宮 茂1964「蝦夷穴古墳」『福島県史』第6巻 資料編1 考古資料
図2-1:佐藤政則1978『日立市六ッヶ塚遺跡発掘調査報告書』日立市教育委員会
図2-2:成田克俊・梅宮 茂1960『勿来金冠塚古墳調査概報』福島県文化財調査報告書第8集 福島県教育委員会
図2-3:氏家和典1972『仙台市南小泉法領塚古墳調査報告書』仙台市教育委員会
図2-4・5:諸星政得ほか1972『茨城県高萩市赤浜古墳群』常総台地研究会
写真1・2:すべて筆者撮影


        
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