トップページへ 組織概要へ 発掘調査情報へ  
 
 トップページ > 調査研究コラム > #052 福島県内における中世越前焼の流通 (2017.1.23)

 
 このコーナーでは、職員が行った調査研究の成果について掲載しています。

#052 福島県内における中世越前焼の流通  佐藤 俊

1.はじめに
 日本中世(平安時代末期から室町時代)のおもしろさとは、ダイナミックな人や物の動きにあると筆者は考えている。日本中世史研究の大家である網野善彦氏によれば、中世期は大陸からもたらされた莫大な銭貨の流入によって貨幣経済が達成され、また為替手形による信用経済も浸透しており、廻船人や商人による流通ネットワークが組織化された時代とされている(網野1996)。こういった経済活動の痕跡は文献だけではなく、発掘された遺跡の出土品からも良好に読み取れる。例えば大陸から輸入された青磁や白磁などの磁器類が、北海道から沖縄県まで全国の主だった中世遺跡で普遍的にみられるのはその好例であろう。

 とりわけ東日本地域の流通を考える上で重要なのは、日本海沿岸と太平洋沿岸に2つの海上流通航路が存在していた点である。それは中世陶器の出土傾向に顕著に現れており、日本海側の遺跡では珠洲焼、越前焼が、一方太平洋側の遺跡では渥美焼、常滑焼が出土している(第1図)。

 つまり中世の東日本地域には海運を基軸にとして、日本海側と太平洋側、2つの「広域流通圏」が存在し、陶器の商圏も同様に流通圏ごとの『住み分け』が行われていたのだ。福島県は浜通り地方が太平洋側に面する一方、会津地方は日本海側の新潟県と隣接しており、珠洲焼、越前焼と渥美焼、常滑焼、2つの広域流通圏が交わる地域と評価できる。

第1図 

東日本地域における中世陶器の分布
(浅野1995より転載)

2.越前焼について
  表題にある「越前焼」とは、福井県越前市、丹生郡越前町周辺の丘陵で生産された陶器の名称である。江戸時代後期の古文書によれば「織田瓶」と呼ばれていた。六古窯のひとつとして著名で、現代においても作陶が続けられている。中世越前焼の窯は1942年に陶磁器研究者である小山冨士夫氏の調査によって発見され、中世まで遡る窯跡として周知された。現在まで中近世の窯数は204基が確認されている。生産された主要器種は擂鉢、甕、壺、瓶である。

 操業の開始時期は12世紀後半まで遡る。16世紀代にはいると越前焼は北海道から島根県にかけての日本海側で広範囲に流通する。福島県に隣接する新潟県、山形県の遺跡では14世紀の終わり頃から16世紀代にかけて出土している。伝世品としては椿沢寺が所蔵する上杉謙信が永禄4年(1561)に寄進した越前焼双耳壺「熊谷焼茶甕」が著名である(田中1994・2010)。また吉岡康暢氏は、越前焼が16世紀代において日本海域沿岸を市場化できた理由のひとつとして、珠洲焼の広域流通ルートを継承したことを指摘している(吉岡1994)。

 福島県の越前焼について飯村均氏は、福島県伊達市茶臼山北遺跡出土の越前焼を報告した際、梁川城北三の丸跡で珠洲焼が出土していることから、北東日本海域との直接的な流通の可能性を指摘した(飯村2005)。

 越前焼の流通研究は当然のことながら日本海側が主体的で、福島県内における研究は限られている。本コラムでは中世期における福島県内の越前焼を集成し、その分布や年代から流通圏やルートを明らかにしていきたい。この際、吉岡氏の研究成果により越前焼は珠洲焼の流通ルートを継承する可能性があることから、吉岡編年Ⅳ期(13世紀末から14世紀後半)からⅦ期(15世紀末)の珠洲焼についても集成し(1)、分布の傾向を示す。また、越前焼の年代については田中氏の編年案(田中1994)を、珠洲焼に関しては吉岡氏の編年案(吉岡1994)を用いることとする。

3.越前焼の分布と変遷
 福島県内における越前焼は、管見の限りでは5遺跡で出土している(第2図)。越前焼が出土した遺跡は、浜通りではみられず、中通りでは福島盆地で集中して3遺跡が分布している。会津地方では会津盆地で2遺跡が分布している。器種構成をみると、大甕が5点と多く、擂鉢は1点の出土に留まっている。年代では、茶臼山北遺跡出土の甕が口縁部形態や体部押印(陰刻の「本」と正格子目文)、高堂太遺跡(2次調査)出土の甕の特徴からⅣ期(古)段階(15世紀前半)を上限とし、桑折西山城跡出土の甕や、元屋敷遺跡出土の擂鉢の特徴からⅤ期(古)段階(16世紀前半)が下限となる。

  一方、福島県内における珠洲焼は、管見の限りでは5遺跡で出土している(第3図)。珠洲焼が出土した遺跡は、浜通りではみられず、中通りでは福島盆地で1遺跡がある。会津地方では会津盆地で4遺跡が集中して分布している。年代では5遺跡から出土した珠洲焼のすべてがⅣ期(13世紀末から14世紀後半)・Ⅴ期(14世紀末~15世紀前半代)に収まり、Ⅵ期(15世紀後半代)以降はみられない。

 以上の結果から福島県内における越前焼は、15世紀前半ら16世紀前半の限られた年代に集中してみられ、福島盆地と会津盆地を中心とした2地域に分布が集中する傾向がうかがえる。この2地域への分布は、13世紀末から15世紀前半代の珠洲焼の分布傾向と同様であった。

第2図 福島県内における越前焼の分布

第3図 福島県内における珠洲焼(Ⅳ・Ⅴ期)の分布

4.2つの流通ルート
 前項では越前焼が福島盆地と会津盆地の2地域に集中して分布することが推測できた。次に2地域における流通ルートについて考えていきたい。越前焼を手に入れるためには、日本海側の流通ルートに組み込まれている越後沿岸の津・湊から求めることになる。越後と内陸の流通について長谷川伸氏は文献上からアプローチしており、2つのルートを想定している。

 1つめは越後から置賜地方を経由するルートである。文明十八年(1486)奥山荘(現在の新潟県胎内市周辺)中条氏の家臣築地氏は、領内を通行する伊達氏の使者の警護と荷物の運搬を命ぜられている。永正十五年(1518)には、伊達氏の使者頤神軒存奭(いじんけんぞんせき)が奥羽から越後を経て北陸街道を通り京へ上っていた(長谷川2005)。また、大永元年(1521)には伊達稙宗が新たに越後と出羽の国境である小国から玉川を経て沼へ至る大里峠の整備をおこなっている。これは伊達氏が、日本海側と内陸の領地を結ぶ流通ルートを重要視した結果と考えられよう。

 さらに越後と隣接し、伊達氏の領地でもある置賜地域では、越前焼や珠洲焼の出土例が少数ながらみられる。川西町元宿北遺跡では時期不明ながら越前焼の小片が出土しており(菅原2015)、米沢市金ヶ崎A遺跡では墓壙からⅢ期(古)段階(14世紀前半)の甕が出土している(月山1997)。越後と出羽の国境である小国町の飛泉寺跡では、Ⅴ期からⅦ期(15世紀代)にかけての珠洲焼の片口鉢や壺が出土している(菅原2004)。

 福島盆地でみられる越前焼は、文献や置賜地方の遺跡から出土する越前焼・珠洲焼の存在などから、越後と置賜地方を結ぶ流通ルートを経由してもたらされたと考えられる。この流通ルートは伊達氏が日本海域側に流通する器財を求めるにあたり活用しており、福島盆地において越前焼、珠洲焼が出土する遺跡が伊達氏に関連する遺跡(2))に集中するのはこの証左と言えよう。

 2つめは越後から阿賀川(阿賀野川)を活用して会津盆地へと向かうルート(近世の越後街道)である。永禄七年(1564)に醍醐寺の僧が、会津方面から津川に出ると阿賀野川を舟で下り越後平野へと至ったとされている(長谷川2005)。以上のことから会津盆地でみられる越前焼は、文献から阿賀川(阿賀野川)の河川水運を活用してもたらされたと考えられる。

第4図

福島県内の越前焼

5.最後に
 本コラムでは大きく3つの事柄を明らかにした。①福島県内における越前焼は、15世紀前半から16世紀前半の限られた時期に、福島盆地と会津盆地を中心とした2地域に分布が集中しており、この分布傾向は珠洲焼(Ⅳ・Ⅴ期)についても同様である。②文献資料や隣県における越前焼、珠洲焼の出土傾向などから、福島盆地へは置賜地域を経由する流通ルート、会津盆地へは阿賀川(阿賀野川) の河川水運を活用した2つの流通ルートを想定した。置賜地域を経由する流通ルートは、伊達氏が日本海域側に流通する器財を求めるにあたって積極的に活用したと考えられる。③日本海側の地域でみられた流通の傾向と同様に、福島県内においても越前焼は珠洲焼の広域流通ルートを継承していることを明らかにした。

 今後、遺跡ごとに出土した陶器の器種構成について明らかにしていけば、常滑焼、在地産陶器、珠洲焼、越前焼など産地ごとの細やかな流通の動態を明らかにできると考えている。

註)
1)福島県内の中世遺跡では吉岡編年のⅠ期からⅢ期(12世紀後半から13世紀後半)にかけて、珠洲焼を模倣した
  在地の珠洲系陶器が出土しており、産地の同定が不明瞭であることから、珠洲系陶器窯が廃絶したと考えられ
  るⅣ期(13世紀末から14世紀後半)以降を対象とした。
2)福島盆地において越前焼、珠洲焼が出土する遺跡は、いずれも伊達氏に関連しており、舟橋遺跡:出土した軒
  平瓦の特徴から伊達氏に関連した寺院もしくは館跡。梁川城跡:伊達氏の居館。桑折西山城跡:伊達氏の居館
  。茶臼山北遺跡:梁川城跡の南東方向の詰めの館跡。となる。

【引用・参考文献】
・浅野晴樹1995「東国常滑焼の出土状況」『常滑焼と中世社会』小学館
・網野善彦1996『日本の歴史をよみなおす(全)』ちくま学芸文庫 筑摩書房
・飯村均2005「第4章出土遺物」『茶臼山北遺跡…梁川城下侍屋敷跡…』福島県伊達郡梁川町教育委員会
・井沼千秋ほか2010『史跡桑折西山城跡発掘調査報告書(第2次調査)』桑折町教育委員会
・大越道正ほか1993『梁川城跡Ⅲ―北・西三の丸の調査―』梁川町教育委員会
・月山隆弘1997『金ヶ崎A遺跡発掘調査報告書』米沢市教育委員会
・小柴吉男ほか1992『元屋敷遺跡《奥会津山ノ内一族中世の館Ⅱ》―ほ場整備に伴う発掘調査報告書―』福島県
 大沼郡三島町教育委員会
・今野賀章2007『舟橋遺跡』伊達市教育委員会
・菅原祥夫ほか2007『高堂太遺跡(2次)』福島県教育委員会 財団法人福島県文化振興事業団遺跡調査部
・菅原哲文ほか2004『飛泉寺跡発掘調査報告書』公益財団法人山形県埋蔵文化財センター
・菅原哲文ほか2015『元宿北遺跡発掘調査報告書』公益財団法人山形県埋蔵文化財センター
・田中照久1994「越前焼の歴史」『越前古陶とその再現―九右衛門窯の記録』出光美術館
・田中照久2010「越前焼 研究編」『古陶の譜 中世のやきもの―六古窯とその周辺―』MIHOMUSEUM
・長谷川伸2005「2日本海と内陸水面の世界 二地域社会の自立に向けて Ⅱ中下越・佐渡の歴史」『越後平野
 ・佐渡と北国浜街道』街道の日本史24吉川弘文館
・堀金靖ほか1994『川原町口遺跡』会津若松市教育委員会
・柳内寿彦1982「新宮城跡出土の珠洲系陶器について」『喜多方市史年報1』 喜多方市史編纂準備委員会
・吉岡康暢1994「第四章 北東日本海域における中世陶器の生産と流通」『中世須恵器の研究』吉川弘文館
・吉田博行1990『樋渡台畑遺跡』会津坂下町教育委員会

 

 

        
このページのトップに戻る▲  
 
遺跡調査部トップページへ  (C)The Culture Promotion Organization of Fukushima Prefecture
 All rights reserved.
サイトポリシー プライバシーポリシー サイトマップ ご意見