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 トップページ > 調査研究コラム > #048 前方後方墳の思想 (2016.8.23)

 
 このコーナーでは、職員が行った調査研究の成果について掲載しています。

#048 前方後方墳の思想 青山 博樹

◆はじめに
 ネット上に書くのは2回目ですが、前回と同様、着想ものを書いてみようと思います。
 タイトルは「前方後方墳の思想」。前方後方墳の思想的背景にせまります。

◆古墳のかたちの意味
 古墳のかたち(墳形)にはいくつかの種類があります。前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳などです。
 古墳時代の人々は、古墳の形をどのように選んだのでしょうか。墳形にはそれぞれに意味があって、その古墳の被葬者の地位や立場によって墳形が選択されたと思われますが、それを決める原理はわかっていません。日本考古学の大きな課題の一つといえます。

◆首長墓系譜のいろいろ
 規模が特に大きな古墳を、その地域の首長の墓という意味で「首長墓」といいます。首長墓は数基がしばしば近接した場所に造られていて、首長が代替わりするたびに古墳が築造されたと考えられています。これを首長墓系譜といいます。
 首長墓系譜には、採用される墳形によっていくつかの類型があります。前方後方墳が多い古墳時代前期の首長墓系譜は、次のように分類することができます。
 A 前方後方墳継続型 首長墓のすべてが前方後方墳のみで構成される首長墓系譜です。栃木県の那須の首長墓 系譜がよく知られています。福島県では、会津盆地の東部、旧塩川町にある首長墓系譜がこれに分類できます。
 しばしば数基の方墳を伴う場合があります。
 B 前方後方墳→円墳交代型 数基の前方後方墳を築造したのち、墳形が円墳に変わる首長墓系譜。福島県では
 、郡山盆地東南部の首長墓系譜が、仲ノ平6号墳、正直35号墳、大安場古墳と3基の前方後方墳が継続したの
 ち、円墳の団子山古墳を築造します。
 C 前方後方墳→前方後円墳交代型 最初の1基が前方後方墳で、以降、前方後円墳を築造する首長墓系譜。
 福島県では、会津盆地の西部、会津坂下町の青津にある鎮守森古墳と亀ヶ森古墳からなる首長墓系譜がこの類型
 に分類されます。
 D 前方後円墳継続型 前方後円墳のみからなる首長墓系譜。福島県では、会津盆地東南部に位置する会津若松
 市の飯盛山古墳、堂ヶ作山古墳、会津大塚山古墳からなる首長墓系譜がこれに該当します。

 4つの墳形によって形作られる首長墓系譜は千差万別であっていいはずですが、実際はそうではありません。上にあげたのはそのすべてではありませんが、前期の首長墓系譜の多くは上の類型のいずれかに分類できることが多いように思われます。そして、そこには首長層の何かしらの性格が反映されていると思われます。
 このことは、墳形の意味を考えていくうえでも一つの切り口になると思います。

◆思想復元の方法
 考古学は、ものの背景にあってそれを生み出した精神的活動がどのようなものか、というような思想的・観念的テーマを不得手とします。よってこのような問題に接近しようとするときには、その対象を考古資料として扱うだけでなく、民俗学などさまざまな学問領域の成果に依拠し、解釈することが必要になります(小野山1985、車崎2000)。
 われわれの身の回りにも、なぜその行為を行うかについての理由がわからないにもかかわらず粛々と実施される行事が多くあります。冠婚葬祭にかかわる儀礼や、いくつかの年中行事などです。
 しかし、どのような行為も本来はれっきとした意味や目的をもっていたはずです。それを見出すためには、その本来の姿、つまり原形を明らかにすることが必要です。
 円筒・器財・人物・動物の区別なく穿たれる埴輪の円窓が、その祖形である特殊器台に描かれた文様のレジメントであること、中・後期の古墳から出土する金属製の沓の底につけられた歩揺が本来はスパイクであることなど、原形を知ることで形骸化したものの本来の意味や意図を知ることのできる事例は少なくありません。
 ここでは、前方後方墳が成立していく過程から、前方後方墳とはどのような性格をもち、被葬者のどのような属性・性格が反映されているのかについて考えることにしたいと思います。

◆前方後方墳の原形
 前方後方墳は、方形周溝墓を原形とすることが明らかになっています(赤塚1992)。当初は周溝の隅を掘り残していたものが、周溝の全周するものと一辺の中央を掘り残すもの(以下、B型墳)に分かれ、この掘り残しがしだいに発達して前方部へと変化し、前方後方墳が成立します。
 すなわち、当初における両者の違いは周溝の一辺の中央の掘り残しの有無にあります。すでに多くの指摘があるように、この掘り残しは墓の内外を結ぶ出入り口と考えられます。前方後方墳の思想的背景を考えるヒントは、この出入り口としての掘り残しにあるのではないでしょうか。

図1 前方後方墳の成立過程 (赤塚1995から転載)

◆墓域と祖霊信仰
 墓は、物理的には祖先の遺体の在りかであり、観念的には祖先の霊の存りかです。考古資料、民俗資料としてみえる墓域の多くは、墓の集積によって形作られます。そこには祖先の遺体と霊が塁重し、一塊の祖霊が観念されます。墓域とは祖霊の居所であり、造墓集団は同じ祖霊の子孫という観念を共有し同祖同族であると意識します。墓域は集団を束ねる結合力を発生する装置でもあります。
 はたして、弥生時代の方形周溝墓群にもこのような観念があったとすれば、それはやはり集団の祖霊の居所と考えることができます。

◆前方後方墳の被葬者像
 方形周溝墓群にこのような観念が存在しているとした場合、方形周溝墓の内外を結ぶ出入り口にはどのような意味があるのでしょう。
 それは周溝によって周囲を取り囲まれている墓については死者の霊が墓にとどまり続ける一方、出入り口のある墓の被葬者については墓にとどまる必要がない、あるいは墓にとどまる資格がないことを示しているのではないでしょうか。前方後方墳の祖形であるB型墳は、その被葬者が墓域にいながらも祖霊には合一しないことを示しているのだと思います。
 では、被葬者のもつ祖霊に加わらない性格とは何でしょうか。また、祖霊に加わることができる資格とは何でしょうか。
 まず考えられるのは、被葬者が成人か否かという点です。婚姻や出産によって自らの子孫をもうけること、あるいはこれと同等の意味をもつ歌垣や成年式など通過儀礼を経験することによってはじめて祖先たりえるとすれば、まだ自らの子孫のいない未成年者は死しても祖霊にはなりえません。子供と成人の墓を区別する墓制が考古資料にも民俗資料にも多くみられるのは、このような観念の反映とも考えられます。
 ただし、方形周溝墓には、同一の墳丘に大人と子供を埋葬した例が確認されています(大村1991)。よって、この想定は退けられなければなりません。
 次に考えられるのは、成人後も何らかの理由によって婚姻や出産をしなかった人物の可能性です。この場合も、自らの子孫を残さないため祖霊にはなりえません。
 ここで想起されるのは、『魏志』倭人伝が卑弥呼について述べている「年已に長大なるも夫婿なし」という記述です。卑弥呼が未婚のまま歳を長じたのは、人ではなく神と婚姻したと観念すること、すなわち神婚することで神と交渉する呪術的な能力を得たと観念されたのではないかという意見があります。
 人と世俗的な婚姻をしないという慣習は、神に仕える男女の聖職者にしばしばみられます。仏教の僧侶やカトリックの司祭が正式には結婚しないことなど、現代にもこのような慣習があることはよく知られています。民俗学的調査によって明らかにされている巫女の習俗には、神婚した巫女は人間との婚姻を行わない場合がほとんどであるという指摘もあります(桜井1987)。
 いうまでもなく、聖職者は神に仕え神との交渉を仲介する役割を担います。彼・彼女らが人と婚姻しないことは、神との観念的な婚姻を示唆しています。神を配偶することで、神と交渉する能力をもつと観念されます。
 B型墳を祖形として成立する前方後方墳がこのような観念の産物だとすれば、その被葬者は神婚することによって神すなわち祖霊と交渉する能力を得たと観念され、かつ、人とは婚姻しないことによって自らの子孫をもうけえず、死しても祖霊とはなりえなかった人物、という像を描くことができるのではないでしょうか。

◆前方後方墳被葬者の出産歴
 このような観念を前方後方墳やそこから出土する遺物に見出すことは困難です。思想や観念は形をもたず、ものとして存在しないからです。
 これではいままで述べてきた仮説は証明できないのですが、このような観念の存在を考古学的にあぶりだしていくことは不可能ではありません。ここで注目するのは、被葬者の出産歴です。
 古墳の被葬者が既婚者であったかどうかは、男性の場合はわかりません。骨に痕跡を残さないからです。一方、女性は妊娠すると骨盤に妊娠痕が生じることが知られています。この点に着目した古墳出土人骨の妊娠歴の調査によれば、人骨として遺存した女性首長はいずれも妊娠を経験していることがわかっています(清家2002)。ただし、調査された資料には前方後方墳の被葬者は一例も含まれていないため、現状では上の仮説は検証できません。
 これまで数多くの前方後方墳が調査されていますが、埋葬施設が遺存し、さらに人骨も遺存していたのは、群馬県元島名将軍塚古墳しかありません。しかも、その人骨は遺存状態が悪く、性別の判別もできないと報告されています(梅沢1975)。
 このように、出土した人骨によってこの仮説を検証することは現状ではできませんが、出土例を蓄積することによってこの仮説の検証は不可能ではありません。ただし、前方後方墳の埋葬施設から遺存状態の良い人骨が出土する例がきわめてまれであることを考えれば、この仮説の前途は多難であるといわねばなりません。

◆前方後方墳と神婚譚
 『古事記』『日本書紀』『風土記』、民話として語り継がれている昔話などには、人と神が婚姻するいわゆる神婚説話が数多くあります。
 神婚説話にはいくつかの話型があります。その一つに、「苧環(おだまき)型」、あるいは「針糸型」とよばれるものがあります。それは、一人の女性のもとに毎夜通ってくる(つまりは夜這い)男の正体をつきとめようと、その男の衣服に麻糸を通した針を刺し、翌朝その糸をたどっていくと神を祀る社などに行き着いてその男が神であったことが判明する、というものです。
 古墳時代にこのような説話が語られていたかどうかはわかりませんが、筆者はある前方後方墳の副葬品に注目しています。それは、島根県の松本1号墳から出土した針です。注目されるのは、この針には糸が通されていることです。この針と糸は、その被葬者が神婚していたことを示唆しているのではないでしょうか。民俗学的調査によって知られる巫女の習俗には、入巫式の際に苧環を神に捧げる例がしられています(桜井1987)。
 松本1号墳のすぐそばには松本3号墳という前方後方墳があり、前方後方墳継続型の首長墓系譜に分類できます。
 前方後方墳の被葬者が神婚という観念による未婚者であったとすれば、彼・彼女らは自らの子孫を残さなかったことになります。この場合、首長の交代は世襲ではなかったことになります。

図2 島根県松本古墳群測量図 (出雲考古学研究会1991から転載)


図3 松本1号墳案内板(筆者撮影)

◆前方後方墳→前方後円墳交代型の被葬者
 文献史学の成果によれば、神婚説話の多くは神と人との間に誕生した神の御子が非凡な能力を発揮して一族の始祖や宗教の開祖になった、と語られます。
 処女のまま神の御子イエスを受胎したマリヤ、神の化身である白い象の夢を見て釈迦を妊娠した摩耶夫人(マーヤ)など、神婚説話は世界中に分布します。『記紀』『風土記』にも、多くの神婚説話が氏族の始祖誕生譚として語られていることは前述のとおりです。羽衣をまとった天人を女房にする「天人女房」も神婚説話の一類型です。
 そして、神婚によって誕生した始祖や開祖だけでなく、これを産んだ親も、マリヤや摩耶夫人のように聖父母として信仰の対象となる場合が少なくありません。聖性には、神の御子であることのほかに、神婚しているということの、二つの属性があるということができるでしょう。
 前方後方墳の被葬者は神婚者であるという上述の仮説と、神婚した聖父母が始祖を産んだと語る神婚説話。これらを対比したとき注意されるのは、首長墓系譜の最初の1基が前方後方墳で以後は前方後円墳となる「前方後方墳→前方後円墳交代型」の首長墓系譜です。
 すなわち、その最初の前方後方墳は神婚して始祖を産んだ聖父母の墓と観念されていたのだとすれば、次に築造された前方後円墳は神の御子であることをもって首長となることをえた始祖の墓と考えることができるのではないでしょうか。すなわち、前方後円墳の被葬者は神の御子と観念されていたことになります。
 列島の各地に数多くの前方後円墳を築造させた古墳時代のイデオロギーとはこのようなものだったと推測します。

◆前方後方墳と初期大和政権
 同じ前方後方墳でも、それが「前方後方墳→前方後円墳交代型」、「前方後方墳継続型」のいずれに属するかで、副葬品などの内容に大きな差を認めることができます。
 「前方後方墳→前方後円墳交代型」の前方後方墳には、三角縁神獣鏡をはじめとする多くの副葬品が出土する例がしばしばみられます。三角縁神獣鏡が初期大和政権と密接な関係にある器物であることを勘案すれば、「前方後方墳→前方後円墳交代型」の首長系譜と、初期大和政権との密接な関係が示唆されます。一方、「前方後方墳継続型」の前方後方墳から三角縁神獣鏡が出土した例はごくまれです。
 ここで筆者が注目するのは、前方後方墳には性格の異なる二者があるという指摘(藤沢2004、中井2004など)です。
 すなわち、前方後方墳には、巨大な墳丘や多数の副葬品、墳丘に施された葺石など、墳形以外は前方後円墳と何ら変わるところのない一群と、巨大さを必ずしも志向しない墳丘、埴輪や葺石はもたず、副葬品が質素な一群に大きく区別できるという意見です。筆者もこの考え方に賛同します。そしてさらに、前方後方墳におけるこの二者は、前者が「前方後方墳→前方後円墳交代型」、後者が「前方後方墳継続型」に含まれる場合が多いのではないかと思います。

◆前方後方墳の思想的背景
 上述のように、「前方後方墳継続型」の前方後方墳には、かならずしも大規模とはいえない墳丘規模、多くの場合で副葬鏡は1枚であるなど副葬品が質素であることのほか、世俗的婚姻の放棄、首長の交代を世襲によって行わないなどの特徴を認めることができます。そこから得られる被葬者のイメージは、禁欲的で清貧、宗教的な規律や戒律を重視する宗教指導者的、司祭者的首長の姿です。原理主義的といってもいいでしょう。
 一方、「前方後方墳→前方後円墳交代型」から受けるのは、禁欲的、清貧といったイメージとはおよそかけ離れたものです。巨大さを志向し、大量の埴輪や葺石によって飾られた墳丘、豊富な副葬品、外来の神仙思想の摂取など、そこから得られるイメージは、見た目を重視し、貪欲で、権威・権力を志向した首長の姿です。これを世俗主義的といってもよいでしょう。
 「前方後方墳→前方後円墳交代型」における前方後方墳とは、前方後方墳=神婚者の墓という観念によって首長を神の子孫になぞらえる役割をおわされ、前方後円墳という政治的地位を表示する墓制の一部に組み込まれたのではないでしょうか。

◆両者の確執
 前方後円墳と前方後方墳は、弥生時代終末期から古墳時代初頭にそれぞれに分布を拡大します。両者は弥生時代の農耕社会が培った祖霊信仰に根ざしながら、一方は世俗主義的な、一方は原理主義的な方向へと向かいました。それが、首長墓系譜の類型に示されているものと思われます。
 ところで、世俗主義と原理主義は、互いの意見のへだたりによって対立することが歴史的にも現代社会にも多くみられます。武力紛争に発展することも少なくありません。前方後方墳や前方後円墳が出現する弥生時代終末期から古墳時代初頭にも、両者の確執があったのではないでしょうか。
 ここで注意されるのは、『魏志』倭人伝が述べる当時の倭国で起きていたある事件です。それは、邪馬台国の卑弥呼と狗奴国の卑弥弓呼の対立で、『魏志』倭人伝は両者を「素より和せず」と述べています。
 想像をたくましくすれば、上で述べたような世俗主義と原理主義の対立が、邪馬台国と狗奴国、卑弥呼と卑弥弓呼の間の紛争の要因であったのかもしれません。
 近年、古墳の出現年代をめぐる研究の進展から、卑弥呼の墓が奈良盆地東南部にある箸墓古墳であるという説の支持者が増えています。箸墓古墳は、全長約280mの最古の巨大前方後円墳です。
 一方、前方後方墳は東日本に多く分布し、前方後方墳が狗奴国に関係する墓制であるという意見も少なくありません。
 これまで述べてきた仮説によって、狗奴国の卑弥弓呼の墓は前方後方墳継続型に属する前方後方墳であり、それはやはり東日本のどこかにある可能性が高いことを指摘することができます。
 また、箸墓古墳が卑弥呼の墓であるとすると、神婚していたと考えられる卑弥呼の墓が前方後方墳ではないのはなぜか、という疑問が生じます。あるいは、卑弥呼は、その名が示すように自身も聖父母から産まれた神の御子だったのではないでしょうか。彼女は神の御子でありながら、神婚をもしていた、すなわち二つの聖性を具有していたことになります。

◆さいごに
 前方後方墳の被葬者は神婚者である、という仮説をたて、考古資料の積み重ねによってその検証が不可能ではないこと、神婚説話との比較から「前方後方墳継続型」の前方後方墳が婚姻や世襲を行わない禁欲的な宗教者であったこと、「前方後方墳→前方後円墳交代型」の前方後方墳の被葬者が、始祖を産んだ聖父母の墓と観念されたのではないかということ、さらにそれぞれのもつ原理主義的、世俗主義的なイメージから、『魏志』倭人伝が述べる卑弥呼と卑弥弓呼の対立が宗教紛争だったのではないか、ということなどを推測しました。

 小文は、2006年に栃木県立博物館で行われた第11回東北・関東前方後円墳研究会『前方後方墳とその周辺』というシンポジウムで口頭発表したもの(青山2006)に筆を加え、読み物風に書きあらためたものです。(2016年8月8日 脱稿)  

【参考文献】
・青山博樹 2006 「前方後方墳の思想」第11回東北・関東前方後円墳研究会『前方後方墳とその周辺』当日配
          布資料
・赤塚次郎 1995 「前方後方墳から見た初期古墳時代」『前方後方墳を考える』第3回東海考古学フォーラム
          753~758頁
・赤塚次郎 1992 「東海系のトレース」『古代文化』44-2 35~49頁 古代学協会
・出雲考古学研究会 1991 『松本古墳群』古代の出雲を考える7
・梅沢重昭 1975 「群馬県地域における初期古墳の成立(1)」『群馬県史研究』第2号 1~30頁 群馬県
          史編さん委員会
・大村 直 1991 「方形周溝墓における未成人中心埋葬について」『史館』第23号 25~79頁 弘文堂
・小野山節 1985 「資料論」『岩波講座日本考古学』1 17~42頁 岩波書店
・車﨑正彦 2000 「古墳祭祀と祖霊観念」『考古学研究』47-2 29~48頁 考古学研究会
・桜井徳太郎 1987 「巫女の入巫と神婚伝承」『東アジアの民俗宗教』吉川弘文館
・中井正幸 2004 「二つの前方後方墳」『古墳時代の政治構造』197~215頁 青木書店
・藤沢 敦 2004 「前方後方墳の変質」『古墳時代の政治構造』216~234頁 青木書店
・清家 章 2002 「古墳時代女性首長の出産歴」『エコソフィア』第9号 98~111頁 民俗自然誌研究会
・柳田國男 1946 『先祖の話』筑摩書房
・山本 清 1965 『松本古墳調査報告』島根県教育委員会


 

 

        
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