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 トップページ > 調査研究コラム > #044 調査遺構の復元事例-荻平遺跡の鍛冶炉-(2016.6.16)

 
 このコーナーでは、職員が行った調査研究の成果について掲載しています。

#044 調査遺構の復元事例-荻平遺跡の鍛冶炉- 吉田 秀享

 埋蔵文化財の調査は過去の人々が生活していた家とか建物やお墓、あるいは何らかのモノを作っていた工場や工房などが対象となる。これらは、実際に昔の人たちが使用し利用したものであるが、調査で主に確認できるのは地面より下の部分のみである。例えば家の跡の場合では、地面を掘り下げて作られた床面や柱の穴は見つかるが、屋根とか柱そのものや梁、壁などは長い年月の間に文字通り土に返ってしまうので確認できない。このため、調査した遺構から当時の状況を復元することは非常に難しいこととなる。今回は、調査した遺構と非常に類似した現在のものから当時の状況を推測していきたい。

 相馬市の北西、阿武隈東道路の建設で調査された遺跡の一つに荻平(おぎたいら)遺跡がある。荻平遺跡は相馬市街地から西方へ11kmほどいった地点にあり、宇田川上流域の河岸段丘上にある。平成15年の阿武隈東道路建設に伴う分布調査で発見され、平成18・19年に試掘調査を行い、遺跡面積69,000㎡、縄文時代早期から晩期、平安時代にかけての複合遺跡が確認された。

 発掘調査は3カ年にわたり実施され、縄文時代早期末葉から晩期にかけての竪穴住居跡が56軒、弥生時代前期から中期の竪穴住居跡2軒、平安時代の竪穴住居跡20軒、時期不明な住居跡2軒の他、掘立柱建物跡1棟、土坑75基、焼土遺構44基を確認した。

 このうち調査報告で鍛冶炉関連遺構とした13号焼土遺構について紹介していきたい。図1に示した13号焼土遺構は、直径50㎝ほどの鍛冶炉本体を中心とし、炉の左右(東西側)には幅狭の長方形の浅い落ち込み(P4・5)、その上下側(南北側)には、長方形あるいは馬蹄形の作業場と考えられる比較的広い落ち込みがある。炉本体とこれらの遺構の機能時底面を図1中に太い線で示した。

図1

13号焼土遺構

(←クリックで拡大)

 炉の上方(北側)の長方形部分は、炉の焼土面から15㎝ほど低く、その規模は、長さ2.3m、幅1.5mで、底面はほぼ水平となっている。落ち込みの底面からは、長軸に対し斜めに掘った長方形の掘形が確認されている(この掘形の機能は不明であるが、底面にあった大型礫を除去したために発生した落ち込み?とも考えられると調査担当者から伺った。)。長方形落ち込みの底面には炭化物(木炭)が薄く堆積している。

 炉の下方(南側)にある馬蹄形の落ち込みは、長さ2.8m、幅1.7mで、こちらの底面も炉床面から15㎝ほど下がっている。底面直上には木炭層の堆積は見られず、落ち込み内には北側の長方形落ち込み同様の黒褐色土が堆積している。

 この他、炉の周囲や長方形の落ち込み内から6基の小穴が確認された。P1は炉から70㎝ほど左側(西側)にある楕円形の穴である。P2・3は、直径35㎝の小穴で、長方形落ち込みの長辺のほぼ中央にあり、左右で対になっている。P4・5は炉の両側にある長方形状の浅い窪みである。P6は長方形落ち込みの底面から確認された不整形の穴で、深さ20㎝の穴の中からは、主に堅果類の炭化したクリなどの外皮が多量に出土した。

 13号焼土遺構から出土した遺物を図2・3に示した。図2-1・2はロクロ成形の土師器杯で、内面には黒色処理が施されている。3は非ロクロ成形の土師器杯で、頸部が屈曲し口縁部が外反する。4は、底部から直線的に開く器形で、布によるヨコナデが顕著に観察できる。5・6は土師器甕で、5は非ロクロ成形で、頸部が屈曲し、口縁部が外反している。6はロクロ成形で、体部が直線的に立ち上がり、口縁部は外反する。7・8は筒形土器で、指頭痕が顕著で、8は底部が突出している。

 これらの資料は、3は古墳時代後期の資料であり、4が平安時代10世紀前半のものであるが、他はすべて平安時代9世紀後半に属するものである。

図2 出土遺物(1)

 図3には鉄製品を示した。1は太さ2㎜の錐先である。断面形は四角形である。2は刀子である。茎部との境は、棟側も刃側も直線的に切り落とされた関がつくられ、茎部には柄と思われる木質の痕跡が見られる。復元した状態がその下図である。3も刀子である。4はヤリガンナで、二等辺三角形状の刃先を有し、横断面形は、やや湾曲した扁平三角形が特徴的である。5~7は不明な棒状製品である。5は厚さ2㎝、幅6㎝の直線をなす鉄製品で、6はU字状に湾曲したものである。7は鍵状に曲がっている。

 図3 出土遺物(2)

 これらの鉄製品については詳細な時期が不明であるが、先の土器類同様、平安時代のものと考えられる。

 以上のような出土遺物から、この13号焼土遺構の時期は、平安時代9世紀後半から10世紀前半に属するものと考えられる。

 さて、これらの鍛冶炉を中心とした落ち込みや小穴について、上屋部分を復元したものを図4に示した。左側には遺構図、右側には福島市立子山在住の藤安将平刀匠が使用している刀鍛冶炉(以下刀匠鍛冶炉と呼ぶ。)を示した。両者を並べてみると非常に類似していることがわかる。

 図4 荻平遺跡13号焼土遺構想定図(左)と
福島市立子山藤安刀匠の刀鍛冶炉(右)

 具体的に各小穴や落ち込みを説明すると、P1は炉本体との位置関係から送風装置に関連した痕跡と考えられ、ここに鞴(ふいご)が設置されたものと思われる。刀匠鍛冶炉でも同様の位置に鞴が設置されている。ただ、刀匠鍛冶炉では手差し鞴、13号焼土遺構はおそらく皮鞴であろう。

 炉本体の両側にあるP4・5は、長方形状の浅い窪みであり、その配置から防熱機能を兼ねた鍛冶炉の炉壁の掘形と考えられ、そこに壁が取り付くと、刀匠鍛冶炉と同様の炉が復元できる。

 P2・3は長方形の落ち込みに架かる上屋を支えた柱穴と思われ、長方形の落ち込み部分は木炭置場で、このため底面に希薄な木炭層が確認できたものと思われる。刀匠鍛冶炉でも同様の位置に木炭置場があり、長いカギ形の棒で木炭を手繰り寄せ、炉に木炭を補充するのである。炉の南側の馬蹄形の落ち込みは作業空間で、座ったり片足立ちになったりするので、底面がなだらかになる。

 この他、遺構ではカクランになってしまっているが、この位置に金床石が設置されると、まさに、刀匠鍛冶炉の位置関係と同様の配置構成となる。

 以上のように、大ざっぱではあるが、平安時代の焼土遺構と現在の刀匠が使用している鍛冶炉で、各遺構の位置関係が酷似していることが指摘できる。このことが、逆に本炉が鍛冶炉である傍証であり、先ほどの出土した棒状やヘアピン状の鉄製品は本炉で生産されたものかもしれない。

 最後に、本炉での作業状況を推測すると次のようになる。炉本体上方の長方形の落ち込みは、燃料である木炭等をストックし、炉内にスムーズに木炭を送る部分と考えられる。木炭は湿気を嫌うため上屋がかけられ、鍛冶作業は馬蹄形状の落ち込み側に人が座り、左手でP1周辺に設置した皮鞴等で炉内に風を送り木炭を燃焼させていたのだろう。炉の両壁は、熱をこもらせ、熱から身を守るために構築されたものと考えられる。ただ、本来鍛冶作業に伴う鍛造剥片などの鉄滓類や羽口等の出土は確認できなかった。

 調査した遺構をその痕跡から復元していく作業はなかなか難しいものの、さまざまな情報を集約して当時の状況を推測していきたいと思っている。

◆文献 2008 「荻平遺跡(1次調査)」『阿武隈東道路遺跡発掘調査報告』1 福島県文化財調査報告書第455集

 

 

 

        
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