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 トップページ > 調査研究コラム > #037 ところ変われば、土器変わる ―縄文土器の地域差について― (2015.9.28)

 
 このコーナーでは、職員が行った調査研究の成果について掲載しています。

#037 ところ変われば、土器変わる ―縄文土器の地域差について― 小暮 伸之

 当財団では、発電所や高速道路の建設、河川改修など広域な大規模開発に伴う遺跡の発掘調査を行ってきました。その中で本宮市・高木遺跡、双葉郡楢葉町・馬場前遺跡、同郡富岡町・前山A遺跡などの調査では、縄文文化が繁栄を極めた縄文時代中期(今から約4,000~5,000年前)のムラの跡が確認され、当時の生活の様子がだいぶ解明されました。ここでは本宮市・高木遺跡の調査成果を踏まえて、縄文土器の地域差について考えてみます。

 高木遺跡から出土した中部地方ゆかりの土器
 下の図1-1~3の土器は、平成11・12年度(1999・2000)に、阿武隈川右岸築堤遺跡発掘調査事業で調査された本宮市・高木遺跡の251号住居跡から出土しました。

図1 縄文土器の地域差(縮尺不同)

 高木遺跡は、今から約4,000年前の縄文時代中期後半から後期初頭にかけて、阿武隈川の自然堤防上に営まれた大規模なムラの跡です。同遺跡では多数の竪穴住居跡が発見されていますが、その中でも251号住居跡(下の図2)は、直径約7mの規模をもつ大型の住居跡です。内部には、全長が約3.2mもある石組みの「複式(ふくしき)炉(ろ)」と呼ばれる炉(昔の民家で使われていた囲炉裏(いろり)のようなもの)が作られています。

図2 高木遺跡・251号住居跡全景

 上の図1-1~3の土器は、その「複式炉」の「土器(どき)埋設部(まいせつぶ)」と呼称される部分に、並んで埋め込まれていました(下の図3)。ところで、この「土器埋設部」の機能・用途については、当時の食料であるドングリ類のあく抜きに必要な灰をためておく部分とする説、火種の熾(おき)火(び)を保存する部分とする説、魚などを調理する部分とする説など諸説ありますが、「これぞ決定打!!」と呼べるような説は、まだ唱えられていません。

図3 251号住居跡・複式炉の土器埋設部

 話を土器の方に戻しますが、図1-2の土器は、今の福島県を含む東北地方南部で盛んに作られ、使われていた地元の土器、図1-3は、関東地方にゆかりのある土器です。これら2種類の土器は、福島県の南部を中心に一緒に出土することがありますが、図1-1の土器は、少し珍しいものです。というのは、この土器が今の長野県から山梨県にかけての中部地方で盛んに作られた「曽(そ)利(り)式土器」と呼ばれる土器を模倣した土器だからです。

 本場とその周辺の土器とどう違う?
 
それでは高木遺跡の251号住居跡から出土した図1-1を、本場・中部地方の「曽利式土器」や、隣接する関東地方の遺跡で出土した同種の土器と比較してみます。

 図1-4は、山梨県北杜(ほくと)市(し)長坂町(ながさかちょう)の柳(やなぎ)坪(つぼ)B遺跡から出土した土器です。土器の上半分が外側に開き、縁の部分がしっかりと内側に折り返されています。土器の表面には、半分に割った竹の内側を使った縦方向の溝が何本も引かれ、その上に細い粘土紐を貼り付けて幾何学的な文様が描かれています。背景となる縦方向の溝の上に、粘土紐で描かれた文様が浮き立つようで、調和の取れた見事なデザインに仕上がっています。

 図1-5は、埼玉県入間市(いるまし)小谷田(こやた)の坂(ばん)東山(どうやま)遺跡から出土した土器です。全体の形は、図1-4に似ていますが、縁の内側の折り返しが弱く、文様も図1-4に比べると単調で、手間が省かれています。

 高木遺跡から出土した図1-1は、さらに変化しています。土器の上半分は、外側に開くどころか逆に内側にすぼみ、縁の内側には折り返しが見られません。土器の表面に付けられた縦方向の溝が浅いため、文様の背景は全体的に弱々しく感じられます。文様は刻みのある粘土紐をただ貼り付けただけで、図1-4・5のように波状に見せる工夫は見られなくなっています。

 このように、本場・中部地方から遠くなるにつれて、土器が少しずつ変貌していく背後には、どのような理由があるのでしょうか。そこには、土器作りに対する縄文人の思い入れを読み解く鍵が潜んでいるような気がします。

 土器の変貌から読み取れること
 このように縄文土器が少しずつ変貌していく背後にある理由は、まだよくわかっていません。しかし、当時は、結婚や物の交易によって、遠方や近隣のムラとも人の行き来があったでしょうから、それに伴って土器作りに関する情報も伝えられたと推測されます。たとえば、中部地方に近い東京湾沿岸の遺跡では、本場の「曽利式土器」を精巧に模倣した土器が多く出土しています。これは両地域の交流・人の行き来が頻繁に行われた結果、土器作りに関する情報が正確にやりとりされた可能性を示唆しています。しかし、今の埼玉県以北から東北地方南部にかけての地域では、本場の「曽利式土器」の特徴をやや漠然と模倣した図1-1・5のような土器が多くなります。これには、中部地方の人々と直に接する機会が少なく、伝言ゲームのように人づてに土器作りに関する情報が伝わったため、「似ているようで、似ていない」土器になってしまった可能性があります。

 あるいは、他の地域の土器を作るときは、その特徴を自分たちの好みに合うようにアレンジしたのかもしれません。私たちが普段食べているラーメンにも、実は同じようなことが起こっています。本場・九州地方の豚骨ラーメンは、数年前まで続いたブームに乗って全国に広まりましたが、醤油ラーメンが基本の関東地方では、豚骨スープに醤油ダレを加えて、独自にアレンジすることで、より広く受け入れられるようになったと言われています。

 図1-1は、上述したような背景の中で作られた土器のように思われますが、皆さんはどのように想像されるでしょうか。

(本稿は、『文化福島№395』2005年5月号に掲載した記事を加筆・修正したものです。)

【参考引用文献】
図1-1~3 2003 福島県教育委員会「高木・北ノ脇遺跡」『阿武隈川右岸築堤遺跡発掘調査報告3』
図1-4  2008 櫛原功一「曽利式土器」 小林達雄編『総覧 縄文土器』㈱アム・プロモーション
図1-5  1973 埼玉県教育委員会『坂東山』
図2~3 2003 福島県教育委員会「高木・北ノ脇遺跡」『阿武隈川右岸築堤遺跡発掘調査報告3』

 

 

        
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