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 トップページ > 調査研究コラム > #018 大阪市南部、爪破遺跡西側における河川氾濫と土地の形成 (2014.12.9)

 
 このコーナーでは、職員が行った調査研究の成果について掲載しています。

#018 大阪市南部、爪破遺跡西側における河川氾濫と土地の形成 小倉 徹也

(※図表が詳細にわたるため、図表等を含む『完全版』はPDFファイルで別窓に開きます。ここでは、テキストと一部の画像のみ掲載しています。) ※『完全版』PDFファイルを開く>>

◆はじめに
 2009年度から2012年度にかけて、大阪市の南部、大和川右岸の堤防沿いにおいて約2.3kmに渡り調査を行った(写真1、図1~3)。調査地は大阪市東住吉区の矢田遺跡・住道矢田(すんじやた)遺跡、大阪市平野区の瓜破(うりわり)遺跡に当たり、弥生時代前期以降の遺構を数多く発見した。

写真1 調査地遠景(東上空より調査地を望む)

 本地域は西に上町台地、東に瓜破台地に挟まれた沖積平野で、7世紀前半につくられた日本最古のため池である狭山池から流下する西除川(にしよけがわ)流域に位置している。河川氾濫の頻発した地域であったが、1704(宝永元)年に付け替えられた大和川によって南北に分断され、現在は河川の氾濫からは回避されるようになっている。

 今回、図2に示す住道矢田遺跡の東側から瓜破遺跡にかけて(D区のUR10-1次(写真2)・11-1次・12-1次)の700m間で、河川(自然流路)を20川、溝(水路)を43条確認した。また、この内の3分の2はUR10-1次調査地に集中していた。各遺構の検出層準、時代観等については表1~3を参照されたい。以下に、D区UR10-1次を中心にして、河川と溝の状況について述べ、河川氾濫と土地の形成について示す。

写真2 D区(UR10-1次)遠景(西から)

◆河川と溝について
 模式断面図を図3、層序対比図を図4、河川(自然流路)と溝の切合い関係を図5に示す。主だった河川・溝は、縄文時代早期~前期に埋積するNR104(写真8)・145の2河川(赤・紫色:図3~5、特に図5の色をいう。以下同じ)、縄文時代中期に埋積するNR103(写真8)(赤色)、縄文時代後期に埋積するNR99とNR688の2河川(ドット・緑色)、縄文時代後期~弥生時代前期に埋積するNR130(写真4)・90(写真6、91(写真7)と90は同一の河川で、大きく蛇行していた)・93(写真5)・98とSD409の4河川1溝(ピンク色)、弥生時代中期に埋積するNR78(写真3)・87・88・133LW・SD122の4河川1溝(水色)、弥生時代後期に埋積するSD37・83・97・131・109・650・09・NR89(写真5)・133UPの7溝2河川(茶色)、飛鳥時代の水路SD41(写真5)、古代以降のSD40・407である。

写真4 NR130(南西から)

◆河川の氾濫について
 縄文時代早期~中期のNR104・145・103は目立った側方への氾濫は認められなかったが、下方浸食が顕著で、NR104・103はTP+3.0~3.1m、NR145はTP+3.75mまで下刻されていた。縄文時代後期のNR99とNR688において、NR99は下刻深度がTP+4.5~4.6mと他に比べて深くはないが、氾濫堆積物の広がりはD区中央部に広く及んでいたと推定される。これに対して、東端のNR688の下刻深度はTP+4mを越えて深くまで侵食しており、氾濫堆積物の広がりは東側のE区(UR12-1次(東区))にまで及んでいた。UR10-1次の西端での氾濫堆積物の層厚増加は、さらに西側の河川からの供給を示唆している。縄文時代後期~弥生時代前期のNR130・90(91)・93・98とSD409は、最も広く厚く氾濫堆積物を供給していた。また、下刻深度も深く、NR90でTP+3.0m、NR91・93はTP+3.7mであった。弥生時代中期のNR78・87・88・133LW・SD122では、NR133LWでTP+4.0mと深いが、他は下刻の深いものと浅いものとが見られた。氾濫堆積物の供給は浅く広く分布しているように見られた。弥生時代後期においては、下刻深度が最も深いものでSD131のTP+5.3mと、平均して浅いものであった。氾濫堆積物の供給は弥生時代中期と同様に浅く広く分布していた。

写真8 NR103・104(南西から)

◆気候との関係について
 縄文時代から弥生時代の気候は、一般的には、縄文時代早期~前期は縄文海進の温暖期に相当し、縄文時代中期は寒冷期(縄文中期寒冷期)、縄文時代後期は寒冷・干ばつ、縄文時代後期~弥生時代前期は寒冷期(縄文晩期寒冷期)、弥生時代中期は前半が寒冷期、後半は温暖期、弥生時代後期は温暖期に当たる。NR104・145の埋積は縄文海進による海水面の上昇と関係し、NR103の下刻は縄文中期寒冷期の海水準低下、NR688の下刻は縄文後期の寒冷による海水準低下、NR130・90(91)・93・98の下刻は縄文時代後期~弥生時代前期の寒冷期の海水準低下、NR78・87・88・133LW・SD122では弥生時代中期前半が寒冷期、後半は温暖期に相当し、下刻深度に深浅が認められるのはこれによるものとも思われる。SD37・83・97・131・109・650・09・NR89・133UPの下刻の浅いことは弥生時代後期の温暖期に相当すると考えられる。以上のように、気候変動(海水準変動)と河川の侵食(下刻深度)とは、ある程度の相関性を有するものと考えられる。

写真6 NR90(南東から)

◆最後に
 D区の東部、UR12-1次調査地付近は、低位段丘構成層の深度は西側のUR10-1次調査地に比べてやや高く、さらに縄文時代後期~弥生時代前期にかけての河川氾濫によって微高地が形成された(図5)。この微高地に環濠とみられる溝をめぐらした集落が形成されたのは弥生時代前期後半であった(写真9・10)(註1)。この集落は埋没した河川(NR688)の上に形成されており、排水性の高い土地を選定していたものと推測され、河川氾濫による土地の形成と遺跡の形成とが密接に関係していることがよく理解できる。

(註1)(現説資料ダウンロード=http://www.occpa.or.jp/ikou/gensetu/gensetu_pdf/2012_1020%20UR12-1_gensetu.pdf)

【引用・参考文献】
市川創・松田順一郎・小倉徹也・趙哲済・辻本裕也・平田洋司2011、
        「古環境と人間活動の関係把握に向けて―大阪市上町台地北部を題材として―」
        (『大阪文化財研究所 研究紀要』第13号)
今里幾次1942、「畿内遠賀川式土器の細別について-河内西瓜破遺跡水門西地点調査概報-」
        :日本古代文化学会編『古代文化』第13巻第8号、pp.428-448
大阪文化財研究所2013、『瓜破・住道矢田・矢田遺跡発掘調査報告書』
建設省国土地理院1965、『土地条件調査報告書(大阪平野)』
        1983、『土地条件調査報告書(大阪地区)』
中田高・岡田篤正・鈴木康弘・渡辺満久・池田安隆
        2008、「大阪東南部第2版」
            『1:25000都市圏活断層図 国土地理院技術資料D・1- No.502』、国土地理院         2009、「大阪東北部第2版」
           『1:25000都市圏活断層図 国土地理院技術資料D・1- No.524』、国土地理院
大阪府文化財センター2009、『三宅西遺跡』
          2010、『池内遺跡』
田中裕子・小倉徹也2012、「速報!瓜破遺跡の発掘調査-ついに見つかった弥生時代前期のムラ-」
             :大阪文化財研究所編『葦火』161号、pp.1-3
山本博 1940、「河内国大和川川床出土の弥生式遺物に就いて」(一):『考古学雑誌』第30巻第11号         1941a、「河内国大和川川床出土の弥生式遺物に就いて」(二):『考古学雑誌』第31巻第2号         1941b、「続河内国大和川川床出土の弥生式遺物に就いて」:『考古学雑誌』第31巻第7号

        
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