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 トップページ > 調査研究コラム > #014 矢祭町上野内遺跡の調査結果(2014.10.14)

 
 このコーナーでは、職員が行った調査研究の成果について掲載しています。

#014 矢祭町上野内遺跡の調査結果 今野 徹

 今回は、福島県東白川郡矢祭町にある上野内遺跡のご紹介です。調査報告書の発行は12月中旬に予定されていますが、矢祭町教育委員会のご了解を得て、調査の概要を掲載させていただきました。

(1)上野内遺跡の位置と概要

 上野内遺跡のある矢祭町は、福島県の南東端に位置し、茨城県と接しています。
 町の中心にはアユ釣りで有名な清流で知られる久慈川が北から南に流れ、この久慈川に沿ってJR水郡線や国道118号線が延びています。東には阿武隈高地、西には八溝山地が広がっています。
 矢祭町では、70箇所もの遺跡が登録されていますが、その多くは久慈川東岸の段丘上と、久慈川の支流の小田川や田川沿いに集中しています。

 上野内遺跡は、矢祭町大字東舘字下上野内にあります。現在の市街地にほど近く、JR水郡線の東館駅から南東へ約300m、国道118号線から東に150mほどの距離にあり、旧国道349号線にも面しています。田川の北岸沿いに広がる沖積地を利用した水田域から、一段上がった段丘上に立地し、なだらかな南向きの緩斜面です。
 過去の表面調査により、縄文土器・土師器・須恵器などの破片が採取され、散布地として登録されました。
 遺跡の規模は東西400m×南北100mほどで、今回の調査区は上野内遺跡の西端に当たります。上
 野内遺跡と同じ段丘の東側には、小さな谷を挟んで縄文・古墳・奈良時代の土器の散布地として登録されている清水内遺跡があります。
 田川を挟んだ南側の丘陵上には、十王台式の良好な資料が福島県史に紹介されている大高平遺跡があり、反対側の北の丘陵上には、白河結城氏が高野郡支配の拠点として利用したとされる東館跡(荒木1990)があります。

(2)調査に至る経緯と調査経過 

 矢祭町では、現在の町立東舘小学校の敷地を広げて、公立統合小学校を平成28年度までに開校する計画が立てられました。敷地の拡張範囲が上野内遺跡を含むことから、平成25年9月、確認調査を行いました。
 その際に、福島県内市町村埋蔵文化財調査技術協力という制度に則り、当財団も矢祭町教育委員会が実施する調査のお手伝いをすることになりました。確認調査の結果、ほぼ全てのトレンチから、遺構および遺物が確認されました。
 本発掘調査が必要となったため、町教育委員会はただちに予算処置を行い、畑部分の1,500㎡を対象とした1次調査が平成25年10月から12月にかけて行われました。1次調査区の西側の宅地部分650㎡については、宅地の移転を待って、平成26年3月から5月にかけて、2次調査として実施されました。

(3)調査成果

 上野内遺跡では、1次・2次併せて2,150㎡を調査し、竪穴住居跡17軒、掘立柱建物跡3棟、土坑16基、溝跡1条、ピット207基が確認されました。竪穴住居跡は、古墳時代と奈良・平安時代の大きく二時期に分かれます。
 出土した遺物は、古墳・奈良・平安時代の土師器が大部分を占め、他に須恵器、弥生土器、陶器、鉄製品、銅銭などが平箱(60cm×44㎝×15㎝)に換算して17箱分出土しています。

①遺構配置図

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②1次調査区全景

③2次調査区全景

 ①古墳時代

 古墳時代の竪穴住居跡は、6号・8号・15号住居跡と名づけた3軒です。
 今回の調査が実施されるまで、矢祭町内にある古墳時代の遺跡は、下関河内地区にある上古宿古墳群と数箇所の散布地が知られているのみでした。町内で古墳時代の遺跡が調査されたのは、上野内遺跡が初めてです。竪穴住居跡のうち、6号住居跡は約7m四方と大型で、4本の柱穴と貯蔵穴とみられる大型の穴を備えています。
 一方、8号住居跡は3.4m四方、15号住居跡は4.7m×5.0mと6号住居跡に比べ二回りほど小さく、柱穴や貯蔵穴は認められませんでした。
 また3軒とも、奈良・平安時代の竪穴住居跡には一般的にみられるカマドは備わっていません。

④6号住居跡

 古墳時代の土師器は、おもに竪穴住居跡や土坑の堆積土から出土しました。その種類には、高杯、小型壺、有段口縁の壺、甕、有孔鉢などがあります。
 一方、一般的な器種である杯や椀、古墳時代前期に特徴的な器台とみられる破片は確認できませんでした。器種組成と各々の土器の特徴から、古墳時代中期、5世紀前半頃のものと考えられます。
 各竪穴住居跡から出土した土器に大きな年代幅は認められないことから、調査区内を見る限り、短期間に営まれた集落のようにみえます。
 しかし、集落が調査区の東側にも広がる可能性があることから、集落の営まれた期間や規模については、今後の調査を待つ必要があります。また上野内遺跡周辺からの古墳の発見にも、今後注目したいと考えています。

⑤古墳時代のおもな出土土器

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⑥古墳時代の高杯(杯部分)

⑦古墳時代の壺

 ②奈良・平安時代

 矢祭町における平安時代の集落の調査事例には、高渡遺跡(星2002)があります。
 高渡遺跡は、上野内遺跡からみて田川を挟んだ丘陵の裾部に立地し、9世紀後半の竪穴住居跡11軒が調査されています。上野内遺跡の集落は、高渡遺跡に先行する時期のものと言えるかもしれません。今回の調査範囲を見る限りにおいては、8世紀後半から9世紀前半に営まれ、その盛期は8世紀後葉から9世紀前葉と考えられます。

 奈良・平安時代のおもな遺構には、竪穴住居跡14軒(SI1~5・7・9~14・16・17)と掘立柱建物跡3棟(SB1~3)があります。多くの竪穴住居跡の平面形は正方形に近く、一辺の長さは、3.0~5.2mです。いずれの住居跡も、北壁か東壁にカマドがあります。
 なかには、11号住居跡と12号住居跡のように重なっているものや、9号住居跡と10号住居跡のように非常に近い位置にあり、同時には存在し得ないものがあり、少なくとも2つの時期に分かれると考えられます。
 また、古い竪穴住居跡を埋め戻して隣接地に建て直す、あるいは竪穴住居跡を埋めて掘立柱建物を建てたとみられるケースがみられ、ある程度計画的かつ継続的に土地・建物を整備していた可能性があります。

⑧奈良時代の竪穴住居跡

(14号住居跡 南から)

⑨1号建物跡 西から

 出土した土師器の杯には、「有」と墨書あるいは刻書されたものがあります。「有」という文字は弘仁2年(811)年に、常陸道に「長有・高野」の2駅が置かれたという『日本後記』の記述(矢祭町1985)を思い起こさせます。
 しかし、「有」と書かれた墨書土器は茨城県を始めとした隣県でも少なからず出土例があり(奈良2001、平川1991)、2点の墨書・刻書土器が出土したからといって、上野内遺跡を「長有」駅と結びつけるのは難しいでしょう。
 ただし集落が営まれた年代が、常陸道が整備された時期に前後すること、街道が通った可能性が高い久慈川東岸に近いこと、規模の大きな集落である可能性が高いこと、建物の建て替えに連続性・計画性がみられることなどからみて、常陸道が整備されたことに何らかの影響を受けた可能性の高い、街道筋の拠点的な集落の一つであったと考えています。

⑩「有」墨書土師器 底面

⑪「有」線刻土師器底面

⑫須恵器杯

⑬奈良・平安時代のおもな出土土器

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  上野内遺跡は久慈川と田川、小田川の合流点に近く、現在の国道118号線と国道349号線が出会う交通の要衝とも言える場所にあります。この地域は常陸道が整備される以前から、久慈川を利用した水上交通、あるいは河川に沿った陸路による他の地域、特に北関東との交流が盛んだったと考えられ、久慈川文化圏とも言われています。矢祭町内から出土する縄文土器には、北関東から出土するものに特徴が似ています(井上2014)。
 先述したように大高平遺跡からは、十王台式土器の良好な資料が出土しています(矢祭町1983)。古来よりの文物が行き交う交通ルートが下地となって、常陸道が整備されたのでしょう。

 

○引用・参考文献
浅井哲也1993「茨城県内における奈良・平安時代の土器(Ⅰ)」『研究ノート創刊号』(財)茨城県教育財団
浅井哲也1993「茨城県内における奈良・平安時代の土器(Ⅱ)」『研究ノート2号』(財)茨城県教育財団
荒木隆1990『東館発掘調査報告書』 矢祭町教育委員会
荒木隆2013「陸奥南部における古代の国境祭祀と交通路」『福島考古第55号』福島県考古学会
井上國雄他1985『松並平遺跡』棚倉町教育委員会
井上國雄他2014『上関上ノ台遺跡発掘調査報告』 矢祭町教育委員会
樫村宣行1995「和泉式土器編年考‐茨城県を中心として‐」『研究ノート5号』(財)茨城県教育財団
奈良・平安時代班2001「茨城県における文字資料集成2」『研究ノート10号』(財)茨城県教育財団
畠山真一他2011『流廃寺跡』棚倉町教育委員会
坂野和信他1997『建鉾山Ⅱ‐三森遺跡の発掘調査‐』表郷村教育委員会
平川南1991「墨書土器とその字形」『国立歴史民俗博物館研究報告代35集』国立歴史民俗博物館

 

        
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