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 トップページ > 調査研究コラム > #009 古代会津の渡来系集団 (2014.7.30)

 
 このコーナーでは、職員が行った調査研究の成果について掲載しています。

#009 古代会津の渡来系集団-「梓 今来」・「秦人」- 菅原祥夫

◆はじめに
 古墳時代の全国各地で渡来系集団が活躍し、彼らの集住地の多くが立評(りっぴょう)の母胎になったことが知られている。東北では、陸奥国柴田郡新羅郷が『和名類聚抄』に見え、列島北限の事例となる(現在の宮城県柴田郡川崎町に比定)。

 はるばる日本海を越えて、韓半島や中国から渡来した彼らは、高い教養と先進的な技術をたずさえ、在地社会の人々と交流を持ちながら、広がっていた。一方で、長い年月を経て遠隔地間に分散しても、同一氏族は強い連帯意識で互いに結ばれていたと考えられている。

 このため、彼らの動向は重要な考古学研究分野の1つと位置づけられ、近年では酒井清治氏、亀田修一氏、土生田純之氏などによる体系的な研究が進められている。

 しかし、古代、とくに8世紀中葉以降の状況はほとんど未解明と言える。東北では、以下の事例が知られているだけだった。

【事例1】
 8世紀中葉に、陸奥国府の多賀城へ須恵器供給を行った硯沢窯跡群で、韓半島系の工人が活動した。このことを示すA1a号窯跡は、周辺窯と全く異なる半地下式構造をなし、同時期の韓半島に類例の認められる独特な窯道具が出土している(図1)註1)。

(図1)

硯沢A1a号窯跡

 同窯跡群では、遠江国湖西窯(こさいよう)→常陸国木葉窯(あぼっけよう)の系譜を引くB3窯跡も単基でみられ(菅原2010)、遠隔地から派遣された技術者が在地工人と協業したと考えられる。

【事例2】
 貞観11(869)年の大地震で大規模損壊した多賀城、陸奥国分寺の復興のため、新羅人瓦工の潤清・長焉・真平が派遣された。

 両遺跡では、大宰府周辺と類似した新羅系宝相華文(ほうそうかもん)軒丸瓦が出土しており(図2)、製作年代は『日本後記』の関連記述内容と合致する(工藤1967、佐川2014)。

(図2)新羅系軒丸瓦の伝播

 このように、今までの事例は渡来直後か短期間の技術者が、多賀城、陸奥国分寺の維持管理ため、臨時的に少数派遣されたものであった。ところが最近、新たな視点を提供する資料が現れた。そこで、次に取り上げてみたい。

◆出土遺跡について
 その資料が出土したのは、会津若松市西木流C、西木流D遺跡である。会津郡衙(会津若松市郡山遺跡)の南西0.7~1.2kmに所在しており、網の目のように広がる流路の空間地に、掘立柱建物群が配置されている。

 調査は、会津縦貫北道路建設に伴い3ヶ年実施され、豊富に出土した墨書土器の検討から、郡衙機能を分掌した「官」に関わる側面と、在地豪族拠点の「私」に関わる側面を併せ持った、郡衙関連遺跡であることが判明した。

◆資料の特徴
 さて、問題の資料とは、胴部側面に「梓 今来」と刻書された須恵器横瓶である註2)。ずんぐりした器形に推定復元でき、法量は口径11.0㎝、器高25.5㎝、胴部最大径33.5㎝を測る(図3)。

(図3)

「今来」の刻書横瓶

 

 問題の文字は、焼成前の製作工程で刻書され、「梓」の字は現代の常用漢字に比べて、つくりの横線が一本多い。また、全体に筆致はなめらかで、達筆である。

【生産地】
 横瓶は、古墳時代以来の伝統的な祭祀用器種と考えられており(中村2010)、会津でも在地生産されている(会津若松市大戸(おおと)窯跡群、喜多方市西新田窯跡、小田小原窯跡)。しかし、それらと対比したところ、胎土・焼成に違いが認められた。

 そこで、より広範囲を探索した結果、新潟県新潟市西部(旧新津市)の窯に類例の存在を突き止めることができた註3)。

 周辺は、会津に源を発する阿賀川下流域にあたり、このことから、本資料は令制国域を越えて運ばれた製品で(越後国→陸奥国)、「梓 今来」の刻書は、遠隔地供給を前提に行われたと推定される。

【出土状況】
 さらにこの点に関連して、出土状況が注目できる。破片は、西木流C遺跡と西木流D遺跡にまたがり、複数の溝跡・流路跡に散らばっていたものが接合した(最大距離は約30m)。したがって、意図的に破壊され、広範囲に投棄された可能性が高い。

 このような須恵器横瓶の出土状況は、北陸の官衙・津・初期荘園関連遺跡で普遍的に認められるもので注4)、単にモノが搬入されたのではなく、それを使用する祭祀形態もセットで北陸から伝えられたことを意味している。

 以上の結論は、所有者および彼の帰属集団を考える上で、きわめて示唆的と思われる。

【年代】
 ただ、詳細な年代は、出土遺構の性格から共伴遺物に幅広い年代のものが含まれており、特定が難しい。現状では北陸の生産状況から、8世紀後半~9世紀中葉と捉えておきたい。

◆史料上の今来
 ここでは、;新しく来た;を意味する今来(いまき)に注目してみる。史料上に、この字句と組み合わさって登場するのは、例外なく政権中枢地の異民族であり(A~C)、出土文字資料は平城京跡でしか確認されていなかった(図4)。

(図4)

平安京の墨書土器「今来」

A「今来才伎(いまきのてひと)」 『日本書紀』雄略七年条………百済から献上された手工業生産集団
B「大和国今来郡(いまきのこおり)」『日本書紀』欽明七年条……渡来人の集住地を母胎にした郡名
C「今来隼人(いまきのはやと)」 『延喜式』巻二十八隼人司……平城京に上京した隼人

 したがって、本資料はそれが地方でも使用されたことを初めて示すのもので、古代の会津に何らかの外来者が入ったことが明らかとなる。

 さらに、西木流C、西木流D遺跡に近接した鶴沼C遺跡では、「今」の出土文字資料が10点発見されており(墨書土器9点、刻書木製品1点)、これが「今来」の省略だとすれば、会津郡衙周辺には「今来」を標識にした一定数の外来者の存在が推測できる。

◆「今来」の集団の性格
 では、具体的に彼らはどのような性格だったのか。

 そこで、既存の発掘資料を全面的に見直したところ、会津若松市上吉田遺跡から「秦人」(図5左)、同市東高久遺跡から「秦□人カ」の墨書須恵器坏が出土しているのに、気がついた(図5右)。

(図5)

「秦人」の安京の墨書土器

 周知のように、秦人は、「初期の有力渡来系集団の秦氏と同族、もしくは従属していた渡来系集団」であり(吉川弘文館1990)、それらの墨書坏には、「今来」と刻書横瓶とほぼ重なる年代観が与えられる。

 このことから、「今来」の外来者は渡来から数世代を経た秦人とみられ、会津郡衙周辺の関連資料の分布の広がりから、一定の人数が移住したと考えられる。

 また、そのルートは、「秦」の墨書土器が「今来」の刻書横瓶の生産窯と近距離の製鉄遺跡で認められ(新潟市新五兵衛山遺跡)、彼らが北陸経由で移住したことが証明できる。

 したがって、冒頭で述べた多賀城、陸奥国分寺の事例とは異質の性格となり、今回の発見意義はきわめて大きいと思われる註5)。

◆近世まで記憶されていた秦人
 最後に、興味深い伝承を1つ紹介しておきたい。

 幕末編纂の『新編会津風土記』は、現在の会津若松市神指(こうざし)に、「源融(みなもとのとおる)の家来の秦人が、主人の命令により移住した」と伝えている註6)。

 源融は嵯峨天皇の十二男で、光源氏のモデルの一人とされる人物であり、これだけでは単純な作り話と片づけられてしまうかもしれない。

 しかし、神指は「秦人」の墨書土器が出土した上吉田遺跡とは至近距離にあり、彼が存命した弘仁13(822)年~寛平7(895)年は、会津郡衙周辺に秦人が移住した推定年代と重なっている。そのため、偶然とは考えにくい。

 したがって、9世紀の史実がのちに脚色され、千年以上たった幕末まで記憶されたとしても不思議ではない。会津の人々にとって、秦人の移住はそれだけ大きな出来事だったと考えられる。

 

【註】
註1)酒井清治氏の教示による。
註2)判読と関連情報の収集は、奈良文化財研究所史料研究室の他、今泉隆雄、三上喜孝、亀田修一、田中史生、北野博司、吉田歓、荒木志伸、渡辺晃宏、青木敬の各氏からの協力を受けている。とくに今泉隆雄氏には、平成23年9月5日に丁寧な文献リストを送っていただいたが、年末に急逝された。この場を借りて、感謝とお悔やみを申し上げたい。
註3)坂井秀弥氏、春日真美氏の教示による。
註4)中村岳彦氏から、北陸の須恵器横瓶を扱った未発表論文の提供を受け、事実関係を確認することができた。また、発掘調査現場で、遺跡景観の類似性を直接教示していただいた。
註5)このコラムの作成中に、高橋学氏から、昭和初期の秋田城跡で「高麗」の墨書土器が発見されたという伝聞があること(高橋1986)、水戸部秀樹氏から、8世紀後半の山形市オサヤズ窯の竹状模骨瓦の類例が、同時期の百済にあるとの情報提供を受けた。また、従来看過されがちであったが、「秦」の墨書土器が、多賀城周辺(陸奥国府域)と城輪柵周辺(出羽国府域)に分布していることを知った。
今回は本文中で触れなかったが、古代の渡来系集団の問題は、このようにまだいくつかの検討材料が残されている。いずれ機会を設けて再論したい。
註6)神指(こうざし)の読みは、山城ないし城を意味する古代韓国語の「コル」・「サシ」と似ている。

【引用・参考文献】
(報告書・辞典)
会津若松市教育委員会2005『東高久遺跡』
奈良国立文化財研究所1989『平城宮出土墨書土器集成Ⅱ』
福島県教育委員会1990「上吉田遺跡」『東北横断自動車道遺跡調査報告9』
宮城県教育委員会1987『硯沢・大沢窯跡ほか』

(論文・書籍)
工藤雅樹1967「新羅系宝相華文鐙瓦の製作年代について-東北地方における新羅系古瓦の出現-」『歴史考古』第13号 日本歴史考古学会
佐川正敏2014「貞観地震復旧瓦生産における新羅人の関与について」『宮城考古学』第16号 宮城県考古学会
菅原祥夫2010「東北地方」『古代窯業生産の基礎研究-須恵器窯の技術と系譜-』真陽社
高橋学1986「秋田県出土の墨書土器集成」『秋田県埋蔵文化財センター研究紀要Ⅰ』
中村岳彦2010「横瓶生産の消長とその意味-横瓶に関する問題提起-」『土曜考古学』33号 土曜考古学会
松村一良2013「西海道の集落遺跡における移配俘囚の足跡について」『内海文化研究紀要』第41号 広島大学大学院
吉川弘文館1990『日本古代氏族人名辞典』
望月精司2007「北陸西部地域における飛鳥時代の移民集落」『日本考古学』第23号 日本考古学会

 

【菅原祥夫 2014.7.30掲載】
(※本稿は、本コーナーに掲載するため新たに書き下ろしたものです。)

        
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