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 トップページ > 調査研究コラム > #008 二本松市トロミ遺跡のかわらけ(2014.7.7)

 
 このコーナーでは、職員が行った調査研究の成果について掲載しています。

#008 二本松市トロミ遺跡のかわらけ 能登谷宣康

トロミ遺跡について
 トロミ遺跡は二本松市北トロミ・南トロミに所在し、阿武隈川の右岸に形成された自然堤防上に存在する。平成23~25年に阿武隈川河川改修による堤防工事に伴い発掘調査が行なわれた。

 3年間の調査の結果、遺構面が複数確認され、竪穴住居跡30軒、掘立柱建物跡20棟、柱列跡10基、土坑158基、溝跡39条、畑跡21カ所、井戸跡1基、特殊遺構2基、焼土遺構2基、性格不明遺構1基、小穴多数が検出され、縄文時代早期中葉から室町時代までの遺物が出土した。

 また、本遺跡は度重なる阿武隈川の氾濫による洪水を受けていたことも確認された。

 この中で、遺跡北部の調査区から鎌倉時代の掘立柱建物跡15棟、柱列跡6基・井戸跡1基がまとまって検出されている。

 掘立柱建物跡は桁行4間以上のものが主体をなし、6間以上の大型のものが6棟存在する。

 また、付近からは中国産陶磁器やかわらけが出土し、1号井戸跡からはかわらけが多量に出土していることから、この区域には当地の有力者の屋敷跡が存在したことが推測される。

 今回は、1号井戸跡から出土したかわらけを中心に紹介する。

◆ 1号井戸跡について
 本遺構は内径約2m、深さ7.35mを測る井戸跡であるが、底面及び底面付近の周壁は砂礫層で、湧水もなく、水がすべて浸透してしまうことから、井戸としての本来の役目を果たせなかったものと推測される。

 さらに、周壁の下半がほぼ直立していることから、砂礫層を約1.4m掘り込んだところで、掘削を中止し、埋め戻したのではないかと推測される。

 また、東壁及び南東壁の上部には縦に並ぶステップ状の掘り込みがそれぞれ2列存在する。

(写真1)

1号井戸跡の東壁の2列に並ぶステップ

 井戸跡内からは、人為的に埋め戻されたと推測される土や石に混じって、完形品を含むかわらけ片949点、陶磁器片6点、銅製品(刀の鞘尻金具)1点などが出土した。

◆ かわらけについて
 トロミ遺跡のほぼ中央部の調査区から、完形品を含むかわらけ片が約1,800点出土した。その約半数は1号井戸跡から出土し、その他、周囲の建物跡や溝跡から出土している。

【概要】 ロクロ成形の小皿(写真2中列左)と杯、口径8㎝前後で器高2㎝未満の手捏ね成形の小皿(写真2前列と中列中央・右)、口径約11~13㎝で器高約2~3㎝の手捏ね成形の皿(写真2後列)の4種類に分けられる。

かわらけ

(写真2)

かわらけ

 ロクロ成形の小皿と杯は、橙色を呈し、胎土は精選されてきめ細かいのが特徴である。小皿は、口径が7.5㎝前後のもので、底部から口縁部へ直線的に外傾して立ち上がるものと外反するものがある。

 器高は2㎝未満のものが主体であるが、底部が厚く柱状高台風で、器高が2㎝を超えるものが1点ある(写真2中列左の最上段)。

 この底部が厚いものに関しては、本来は底面切り離しの際に底部を薄く切り離すはずのものを厚く切り離した結果の可能性もある。

 手捏ね成形の小皿・皿は、いずれも口縁部はヨコナデされ、直立ないしは急外傾して立ち上がっており、色調が浅黄橙色で、胎土が精選されてきめ細かいものが主体をなしている。その一方、色調がにぶい橙色や褐灰色で、胎土に砂粒や雲母が混入しているものもある。

【製作方法】 ロクロ成形の小皿には粘土紐巻上げの痕跡は認められず、見込みに認められるロクロ回転の痕跡から判断すると、粘土塊から水挽きした可能性が高いのではないかと推測される。

 手捏ね成形の小皿・皿に関しては、最終的には口縁部をヨコナデして仕上げているが、他に認められる痕跡としては、一部の資料に認められる内面の放射状の工具痕(写真2前列右の最上段など)である。

 おそらく、製作の最終段階に近い段階で、製品を回転させながら内面を鏝状の工具により成形し、さらにその上をべとべとにしてなでたのではないかと推測される。

 なお、製作の第1段階であるが、小皿は掌に粘土板を乗せ、それより径の大きい皿は板あるいは布・砂の上に乗せて、粘土板の端を折り曲げて体部を持ち上げて成形していったものと推測される。しかし、掌や板・布・砂等の痕跡は確認できなかった。

【使用の痕跡】 ロクロ成形のものの器面には認められないが、手捏ね成形の小皿・皿には油煙が付着しているものが多く認められる。特に、1号井戸跡から出土したかわらけに多く見受けられる。

 その付着箇所は、小皿・皿とも口縁部が主体的であり、皿の場合は体部外面や内面に広く付着しているものもある。この油煙の付着は、灯明皿として使用したことを示すものである。

 内面に広く付着しているものの内、見込み部分に小皿の底径に近似して円形に油煙の付着が見られないものがあることから、皿の中に油を入れ、火を灯すための芯を小皿で押さえて使用していたのではないかと推測される。

 また、口縁部が半円形に欠けている皿も認められる(写真2後列左など)。

 その付近に油煙が付着していることから、意図的に打ち欠いて、その部分から芯を器外に出していたものと推測される。

 なお、すべてのかわらけが灯明皿として使用されたわけではなく、本来は食器として使用されていたはずである。

【編年的位置付け】 出土したかわらけの内、ロクロ成形のかわらけ小皿は底部の厚さに若干の差があるが、1号井戸跡では1カ所からまとまって出土しており、その差が時期差ではないことが分かる。

 また、手捏ね成形の小皿・皿については、建物跡出土のものは1号井戸跡のものより底部が薄い印象があるが、他に顕著な差は認められないことから、ほぼ同時期の資料と言える。

 さて、福島県内におけるかわらけ研究として、中山雅弘氏(中山1988)や福島県考古学会中近世部会(福島県考古学会中近世部会1997)による作業が挙げられる。本遺跡のかわらけは、先に記したように、ロクロ成形の小皿と杯、手捏ね成形の小皿と皿の4種類で組成される。

 このような組成のかわらけは、中山編年の第Ⅱ期(13世紀~14世紀中頃)後半、福島県考古学会中近世部会編年の3・4期(12世紀末~14世紀中頃)に見られるもので、類例として、郡山市艮耕地A遺跡と三春町三春城跡などが挙げられている。

 艮耕地A遺跡は3期の内の13世紀後半、三春町三春城跡は4期(14世紀初頭~中頃)の例である。艮耕地A遺跡の報文(鈴木1985)によると、手捏ね成形の皿には内面にヘラ状工具による圧痕が認められるとのことであり、本遺跡のかわらけと似た製法が採用されていた可能性がある。

 また、三春城跡からは底部中央が盛り上がるヘソ皿状の手捏ね成形の皿が出土しており、このヘソ皿状の皿は本遺跡からも出土している。

 なお、ロクロ成形のものに関しては、前代からの流れを汲むものであり、柱状高台風の小皿は古い要素と捉えることもできる。

【年代的位置付け】 かわらけの年代を推測するための他の資料を見てみると、調査区内からは外面に片彫蓮弁文や鎬蓮弁文を持つ龍泉窯系青磁碗と口禿げの白磁皿・碗が出土している(写真3)。

中国陶磁

(写真3)

中国陶磁

 片彫蓮弁文や鎬蓮弁文の青磁碗は、13世紀中頃に国内で一般的になるもので、口禿げの白磁は13世紀後半に盛行する(山本1995)。

 また、1号井戸跡のかわらけと同一層から出土した炭化物の放射性炭素年代は1277-1298calADと推測されている。

 先の編年的位置付けに、中国陶磁の年代及び炭化物の放射性炭素年代も加味してみると、本遺跡のかわらけの年代は、広く捉えると、13世紀中頃から14世紀中頃にかけての年代が想定され、さらに絞り込むと、13世紀後半を中心とした年代が考えられるのではないだろうか。

【参考文献】
1)中山雅弘 1988 「福島県における中世土器の様相」『東国土器研究』第1号 東国土器研究会
2)山本信夫 1995 「中世前期の貿易陶磁器」『概説 中世の土器・陶磁器』中世土器研究会編 真陽社
3)鈴木雄三 1985 「艮耕地A遺跡」『郡山東部Ⅴ』郡山市教育委員会
4)福島県考古学会中近世部会 1996 「『かわらけ編年の再検討―11世紀から19世紀―』(その1)」『福島考古』第37号 福島県考古学会
5)福島県考古学会中近世部会 1997 「『かわらけ編年の再検討―11世紀から19世紀―』(その2)」『福島考古』第38号 福島県考古学会
6)吉田 功他 2013 『阿武隈川上流河川改修事業トロミ地区遺跡調査報告2』福島県文化財調査報告書第490集 福島県教育委員会

 

【能登谷宣康 2014.7.7掲載】
(※本稿は、本コーナーに掲載するため新たに書き下ろしたものです。)

        
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