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 トップページ > 調査研究コラム > #002 相馬市段ノ原B遺跡の地割れ痕跡(2014.5.1)

 
 このコーナーでは、職員が行った調査研究の成果について掲載しています。

#002 相馬市段ノ原B遺跡の地割れ痕跡  吉田秀享

 福島県は、県内を三分割する形で南北方向に走る阿武(あぶ)隈(くま)高地(こうち)と奥羽山脈によって、東から太平洋を望む浜通り地方と、阿武隈高地と奥羽山脈にはさまれた中通り地方、そして奥羽山脈から西側の会津地方の三つからなる。

 今回紹介する地割れ痕跡は、浜通り地方北部の相馬市椎木にある段ノ原B遺跡から確認されたものである。本遺跡周辺の地形は、西方に阿武隈高地があり、標高430mの鹿(か)狼山(ろうさん)や荷(に)鞍山(ぐらやま)などの山々が急峻にそびえている。

 この東側には、阿武隈高地から高さを減じた相馬丘陵が樹枝状に広がり、さらにその東側には相馬丘陵から延びる中(ちゅう)位(い)段丘面(だんきゅうめん)が形成されている。遺跡は、東西600m、南北160~280mほどの規模を持つ中位段丘面の東端部に位置している。

 段ノ原B遺跡は、今から6,000年ほど前の縄文時代前期前葉(ぜんよう)を主体とする集落跡である。遺跡は、相馬中核工業団地(西地区)の造成に伴い昭和60年から平成3年の4次に渡り、発掘調査が実施された。調査面積は計41,480㎡であり、東西480m、南北120mほどの段丘面の東端部全域が余すところ無く調査された。

 調査の結果、竪穴(たてあな)住居(じゅうきょ)跡(し)102軒、土坑(どこう)333基、焼土(しょうど)遺構(いこう)43基、性格不明遺構12基、集(しゅう)石(せき)遺構4基、製鉄炉1基、遺物を包含する谷7ヶ所等が確認された。

 これら遺構の主たる時期は縄文時代前期前葉であり、これ以外の時代・時期の遺構としては、縄文時代中期中葉の土坑1基と、平安時代の製鉄炉1基、土坑78基(うち、72基が伏せ焼き法で木炭を焼成した土坑で、通称木炭焼成土坑(もくたんしょうせいどこう)と呼ばれるもの)、性格不明遺構3基(うち2基は、斜面をトンネル状に掘り込むため、地下式(ちかしき)木(もく)炭窯(たんかま)の構築途中で遺棄したもの)のみであり、これ以外はすべて、縄文時代前期前葉に属するものである。

地割れ痕跡の位置

(図1)

 このため、段ノ原B遺跡は、縄文時代前期前葉当時の集落の様相について、ほぼその全貌が確認できた非常に希な遺跡と言える。地割れ痕跡は、図1に示したように段丘東端の南側にあり、東西方向に長く延びた状態で確認された。この部分は、段丘面の平坦な面から当時の生活残滓(ざんし)等を投棄した南向き斜面の落ち際にあたり、現標高は54~61mである。

 地割れ痕跡の規模は、東西長92m、南北幅2~6mであり、ほぼ一直線状に並んだ7つの溝状亀裂の集合体として確認された(写真1・2)。最も大きい溝状の亀裂は東西長26m、南北幅3.2mであり、小さいものは東西長16m、南北幅1.6mであり、これらが雁行状になりながら、ほぼ一直線に確認された。

地割れ痕跡の状況

(写真1)

 また、亀裂があるところの南側斜面では、この部分の等高線のみが弧状に乱れ、斜面下方が膨れる状況が確認できるため、段丘東端部の南側が割れて張り出した結果、亀裂が生じたものと思われる。

 亀裂内の形状は基本的にV字であり、上方が広く、下方になるにしたがい狭くなっている。確認できたV字状の深さは最深で2.5m、最浅で0.2mである。

 このV字状の亀裂内には三種類の土が充填(じゅうてん)されていた。それらは、黒色土と褐色土、および黄褐色土であり、いずれも周囲から自然に流入して堆積(たいせき)した土である。

 ただ、亀裂の底面には、亀裂を生じた地山土の崩落土が見られず、直接流入土(りゅうにゅうど)が確認できた。このため、これらの土砂流入現象は、亀裂が生じた時期からさほど時間を経ていない段階で始まったものと推測している。

 この黒色土等で埋まった地割れ痕跡内からは縄文土器片が約4,600点、石器58点等が出土した。これらの縄文土器は、周囲の竪穴住居跡や捨て場(遺物を包含する7ヶ所の谷)等から出土した土器と同時期の縄文時代前期前葉のものであり、福島県内では福島県南相馬市小高区にある宮田(みやた)貝塚出土の土器を標式にする宮田Ⅲ群土器期に相当する。

地割れ痕跡の状況(近景)

(写真2)

 また、地割れ痕跡内からは、焼土遺構7基や土坑4基等が確認された。このうち土坑では、今から4,500年ほど前の縄文時代中期中葉(大木(だいぎ)8b式期)の土坑が、地割れ痕跡が完全に埋まった状態で確認できたため、当該期には地割れ痕跡は埋まっていたものと判断できる。これ以外の3基の土坑は平安時代のものである。

 7基の焼土遺構は、4基が地割れ痕跡の比較的浅い箇所に形成されたものであるが、3基は地割れ痕跡の上端から深さ50㎝~1mほどと下がったV字状の亀裂途中の堆積土上面から確認されている。確認できた焼土遺構の周囲では、地割れ痕跡の壁面も僅かに焼土化しているため、地割れ痕跡内で燃焼作業を行った結果、形成されたものと思われる。

 以上のような形状が段ノ原B遺跡で確認された地割れ痕跡の特徴であるが、一言で言えば、この地割れ痕跡は長さ92m、幅2~6m、深さ1~2mほどに渡り、地面が口を開けたものと推測できる。

 亀裂の下端(したば)がどこまで達していたかは調査で確認できなかったが、写真3のように少なくとも幅10㎝ほどの亀裂に沿って、その左側(実地上では南側)が50㎝ほど大きく落ち込んでいることが見て取れるため、かなり下方にまで亀裂が及んでいたものと推測できる。

断層の状況(近景)

(写真3)

 この亀裂は、おそらく地震、特に大地震により形成されたものと思われ、その時期は縄文時代前期前葉であり、集落が営まれた時に発生したものである。

 段ノ原B遺跡では、地震発生時と同時期の住居跡が最大で59軒確認されている。これら59軒すべての住居が同時存在とは思えないが、10軒程度は同時に存在していた可能性はあるだろう。その中には、地割れ痕跡から15mと近接する住居もあり、目の当たりで地割れを見た縄文人がいた蓋然性は高い。

 前述の地割れ痕跡内で形成された焼土遺構は、地震等で被災し半壊や全壊した住居の部材等を燃やした結果と判断でき、地割れ痕跡から出土した土器や石器は、使用不可になり投棄したものと思われる。

 ところで、段ノ原B遺跡の位置する阿武隈高地と相馬丘陵の境界付近には、ほぼ南北方向に走る双葉(ふたば)断層(だんそう)(双葉(ふたば)破砕帯(はさいたい))が発達している。一般に双葉断層は、北端は宮城県岩沼市、南端は福島県いわき市までの110kmに及ぶ断層であると言われている。

 このうち、北部断層は、宮城県亘理郡亘理町から福島県相馬市をへて南相馬市原町区にかけて、ほぼ南北方向に延びている。この部分の長さは16~40 kmであり、地質調査の結果、最新活動時期は今から約2,400年前以後2世紀以前であり、この最新活動の1回前の活動は、約9,500年~1,2000年前と推定されている。

 そして、その活動は、いずれも断層西側が隆起(りゅうき)する左横ずれ型であり、断層を挟んで西側の地盤が東側の地盤に対して相対的に隆起しながら南側に移動していると考えられている。その規模は、左横ずれ(南側への移動距離)が1.5mほどであり、西側の地盤隆起が0.5~1mほどと計測されている。また、断層の平均活動間隔は8,000~12,000年程度の可能性であるとの結論が出されている(注1)。

 段ノ原B遺跡は、まさにこの双葉断層のほぼ真上に位置し、今回の地割れ痕跡も断層活動の一環とも推測できる。本遺跡から直線距離で北に26kmほど離れた宮城県角田市にある土(ど)浮(ぶ)貝塚では、段ノ原B遺跡より1段階古い上川名(かみかわな)Ⅱ式期を主体とする貝層が、上下の堆積層に乱れなく断層により分断されている(注2)。

 このことは、この断層が上川名Ⅱ式以後に形成されたことを示唆し、この発生起因も段ノ原B遺跡での地割れ痕跡と同時期とするならば、かなり広範囲に渡った大規模地震が発生していたことを物語っている。

 本遺跡では、地割れ発生後も集落は継続して営まれている。地割れを垣間見た人々は、ふるさとを離れることなく、本遺跡が段丘面の高台であったが故に住み続けていた。故郷を離れることの難しさが感じられる。

(注1 「双葉断層の長期評価について」 平成17年4月 地震調査研究推進本部地震調査委員会)
(注2 角田市文化財調査報告書第33集「阿武隈川下流域における縄文貝塚の研究-土浮貝塚-」平成20年3月)

【吉田秀享 2014.5.1掲載】(※福島県文化財調査報告書第312集「相馬開発関連遺跡調査報告Ⅲ 第2編段ノ原B遺跡」平成7年3月)

        
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